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わたしの「うたげと孤心」

うたげが好きだね、とよく言われるし、自分でもそう思う。
でもどちらかというと、酒席の中央にいてわいわいおしゃべりしたり、踊ったりするような「好き」ではなく、うたげを仕掛けておいて、盛り上がっているみなを少し引いたところから眺めているのが幸せ。

それでよく、うたげを仕組む。
大岡信の「うたげと孤心」を引くまでもなく、うたげの成立には、それぞれの孤心が必須であろう。
もっと実際的な話をすると、わたしはうたげの後には必ずカップラーメンをひとりで食べたくなる。
カップラーメンでなくてもいいのだが、いわばそれはひとつの儀礼であって、うたげの後にはともかく一度ちゃんと一人にならないと、あとあとなにかを引きずってしまい、体の調子が悪くなる。

いかに、うたげがわたしたちの生を活性化させてくれるような場であったとしても、それに依存してはいけないし、うたげからわたしを引き剥がし、ちゃんとわたしという輪郭線を確かにする必要がある。

うたげで、拡大したり、交わったり、溶け出したりした、わたしをもう一度、自分へ引き取る必要がある。

今日はカップラーメンがなかったので、うたげを振り返る文章を書いた。

基本的に、対話は開かれたものであり、終わりがない。
文章は、夜中のひとりカップラーメンであるとともに、うたげの開きを一度閉じてくれるものでもある。

わたしがわたしでしかない、ということを確かめるのは、自分の呼吸に耳を澄ますのと同じくらい、時には必要なことであるように思う。
そしてそれはこんなふうに、見栄えもしない文章を淡々と書くという地味な作業にかかっていることが、生活の中ではふと愛おしく思える。

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