保育セミナー「うたげと初心」2024〜溝口義朗さん〜「「不適切保育」の時代に、保育者のホスピタリティとは」
新しい保育セミナー「うたげと初心」。11/16(土)にオリンピックセンターにて開催します。
登壇者は・・・
西野博之さん(フリースペースたまりば)、岩田恵子さん(玉川大学)、西井宏之さん(白梅幼稚園)、溝口義朗さん(ウッディキッズ)、石上雄一朗(社会福祉法人東香会)、青山誠(社会福祉法人東香会)
「不適切保育」の時代に、保育者のホスピタリティとは
セミナーの大トリを務めてくださるのは、ウッディキッズの溝口義朗さん。
「「不適切保育」の時代に、保育者のホスピタリティとは」というテーマです。
どこか似ている、「新しいスダンダード」と「不適切保育」
大きな災害や未知の感染症が襲いかかってくる非常時であれ、そのようなものが起こっていない通常の状態であれ、私たちの社会は相互監視が大好き。
まるで水が高いところから低いところへ流れるように、
言葉を変え、方法を変え、アプローチを変え、
それでもやっぱり相互監視の空気を作って、それで縛り合うのが、とてもうまいし、とてもナチュラルにそうしてしまう。
世田谷区のHP、「世田谷区内の保育施設における虐待(不適切な保育)や重大事故等の通報について」にはこう書かれています。
初めは小さな行為であっても、取り返しのつかない大きな行為となることや、重大な事故につながることがあります。些細なことでも、日常の保育の気になることや違和感を持った際には、本窓口をご利用ください。通報者の秘密は守られます。(世田谷区HPより)
そこに記載されている例示にはさまざまなものがありますが、例えば、(園児を)呼び捨てにしている、などの文言もあり、はたしてここに入れるのが適当かどうか首を傾げるものもあります。
呼び捨ての是非は置くとしても、そうした関わりの中での文脈依存的な出来事までをも、「虐待(不適切な保育)」として、外側から監視される必要がどこまであるのでしょうか。
どのような保育の関わりも閉ざされず、協議にさらされていいと思いますが、このシステムでは園側からの対話の道は閉ざされていて、一方的な「事実確認」しかないので協議にはなりません。通報者は非通知、匿名で行政側からの事実確認すら返せないこともあり、通報者にとってはそれが「虐待(不適切な保育
」の「事実」として固まってしまいます。
そもそも「虐待(不適切な保育)」と、ひと連なりの表記では、虐待と、不適切な保育が同義とされ、何が不適切な保育の範疇にあたるのかも曖昧です。
保育者たちは、見えない全方位から、一方的に監視の眼差しを受けて、この行為が不適切なのか、それが「虐待」として表現され、通報され、返答もままならないという状況に立たされています。
「不適切保育」という言葉やそこから起こる事態を、一度考えてみたい。
そう提起するときに、「「不適切保育」と名指されるような保育を許していいのか」「虐待を防ぐ必要はないのか」という極論で返されることはないでしょう。
虐待を防ぐこと、そうした行為が許されないことには誰も異論はないでしょう。
一方、「不適切保育」という言葉やそこから起こっている事態について考えることは、位相の違う問いです。
どのような角度からの問いなのかを明らかにするために、今、学校で流行りつつあるという「スタンダード」なるものを参照してみます。
小学校に広がる謎ルール「スタンダード」とは何か〜教員と子どもを縛る教育システム(imidas, 村上祐介さん)
https://imidas.jp/jijikaitai/f-40-192-20-03-g797
振る舞いや、そこにあらわれるとされる心情までをも、スタンダードという外側からの基準で、是非を問われます。生徒はもちろん保護者、教員にも。
こうした事態に、憲法学者の木村草太氏は次のように呟いています。
「不適切保育」、スタンダード、どちらにも共通している部分があります。
それはいつでも「言葉」として作られ、空気として定着し、相互監視に落とし込まれます。
それはいつでも、最初は外側にあったものが、いつしか私たちの内側にぬるっと滑り込み、あたかも自分の倫理であるかのように癒着していきます。
問題なのは、こうして作られた空気がどこへ向かうのか、という点です。
それはより弱い方、より言葉を持たない方へと圧縮されていかないでしょうか。
相互監視の厳しさの中で、告発される側に回らないために、私たちは恐怖に同化してしまい、本来は自分の中になかったような規範を一方的に、他者をただただ告発するためだけに、用いないでしょうか。それじゃあ、まるでドラキュラのようです。
「こどもまんなか」の危うさ。子どもだけが、まなざされていいのか
子どもを時に応援したり、時に陰ながら見守ったり、時に近くでただ寄り添ったり。でも今の時代は同じくらい、いやそれ以上に、時に、あえて目を離す必要もあるのではないでしょうか。
「こどもまんなか」という言葉が、一方的に子どもがおとなたちによって「まなざされて」(眼差しを向けられる、注視される)いくのであれば、私たちは自分のまなざしが持ってしまう「権力」に気付き、もっと柔らかで、繊細は目を持つ必要があります。
ふっと目をそらす、伸び縮みする目線で遠くから見たり、あるときは近くから見たり、瞑った目の中で相手の姿を思いやる。目はいくつもの表情を本来は持っています。
でも今子どもに注がれる目は、いつでも同じ表情をしています。
何事もないように。〜しないように、〜した方がいい。
一見、思いやりに満ちて、優しいトーンを持ちながらも、それはいつでも「あなたのために」という一方的な押し付けがましさと、語られている内容と真意とのギャップに満ちています。
多くの場合、それらの「あなたのために」は実は嘘で、大人の側のリスクマネージメント、あるいは心配の文言であることは、誰にとっても明らかです。
保育者のホスピタリティとは
もっとギャップのない言葉で、私たちの真意で、子どもについて語り、応援し、不適切保育とされるものや、ましてや虐待というものを、私たちの内側から止めることはできないのでしょうか。
溝口さんが今回語ってくれるのはその辺りのことです。
保育という営みの内側にすでにあるもの。
私たち保育者が日々の中で「ふつうに」やっていること。
子どもとの間に起こっている、当たり前のこと。
その中にこそ、「不適切保育」として世間で懸念されているものへの応答や、虐待を抑止する力が、確かにあるのです。
保育という営みが本来持っている希望を語っていただきます。