喃語から世界を見る
『エコラリアス』
「幼児は、「喃語の極み」において一時は発音していた無限の音の数々を忘却しなければ、ひとつの言語を特徴づける母音と子音の有限のシステムを身につけることができないのかもしれない。際限のない無数の音を失う、という代価を払うことなしに、幼児はひとつの言語の共同体内に正式な位置を占めることができないのかもしれない。
はたして、成人が話す諸言語は、かつてそこから生まれ出た限りなく変化に富んだ喃語のなにがしかを留めているだろうか。あるとしたら、それは谺(こだま)でしかないだろう。というのも、言語があるところには、幼児の喃語はとうの昔に消え去ってしまっているからだ。少なくとも、まだ言葉を話せない幼児の唇がかつて発した形ではもう残されていない。それは、他の言葉、あるいは言葉でさえない何ものかの反響なのかもしれない。谺する言語(エコラリアス)、自らが消滅することで言葉の出現を可能にする言葉にならない記憶の彼方の喃語の痕跡なのだ。」
(ダニエル・ヘラー=ローゼン『エコラリアス』(みすず書房))
忘却
忘却というならば、おそらくその忘却を埋めるために、あるいは言語によって分節化された世界を、また流動体にもどすために、私達には芸術があるのだろうか。
いや、ことさら芸術などと身構えなくてもいいのかもしれない。
歌い、踊り、あるいは描き、形づくるときに、わたしたちは忘却を超えて、世界の全体性へと復活できる。
言葉による試み
アルチュール・ランボーの溶解体験に始まり、ブルトンの「溶ける魚」の自動記述において般化が試みられ、ロルカがスペイン中世の詩句の比喩を受け継ぎ、朔太郎の詩に通底するように、詩は言葉によって言葉の分節化を越えようとする試みでもある。
草書体のように、もしくはハングルのように
私達は言葉を分節化するがゆえに、言葉によって分節化されていく。
私達の言葉を草書体のように流動化する仕組みはあるだろうか。
あるいはまた、ハングルが漢字に対しての明確な意志のもと、声をつかまえようと編み出されたように、分節化された言葉への明確な意志のもとに、私達は流動化する言葉を生み出し、世界を喃語化することができるだろうか。