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わたしたちのナラティブツリー04〜沈黙としてあること、言葉の腐葉土

書き留めておかないと忘れてしまうこと、つらつらと。

ナラティブツリーの中で、私たちがどのように生息しているか。
そこでは誰もが語る人である。同時に、誰かの声を聞く人でもある。
ナラティブの声であるとともに、他者にとっての耳でもある。

それは傾聴というよりも、もう少しゆるやかな耳である。

ナラティブを書くとき、私たちは誰かに読んでもらい、自分のナラティブが誰かに聞き取られることを期待している。

その誰かは特定の誰それではないが、かといって、「誰でもいい」というぞんざいさはなく、「誰かには聞いてほしい」という親密な期待に満ちている。

私たちは語る、語り出す。
その時、「誰かには聞いてほしい」という期待とともに、「そこにはきっと聞いてくれる人がいるであろう」という期待へ向かって語り出す。

まだ応答はない。ナラティブは沈黙に囲まれている。
でもその期待に満ちた集合的な沈黙に向かって語りながら、そこに自分のナラティブへの率直な応答や、安息を求めている。

だからこうも言える。
誰かのナラティブを「聞く」という局面から見る時、私たちはまず誰かにとっての沈黙として、また耳としてすでに存在しているのだ、と。
私たちは自分のナラティブを語り出す前から、他者にとっての親密な沈黙として存在している。

誰かのナラティブに応答しようとするとき、私たちは集合的な沈黙から固有の声として、立ち現れるが、その応答が終わればまた集合的な沈黙へと溶けていく。

それは心理的安全性というような、偽善的で操作的でやわらかに支配的な、それではない。
ときにはお互いの存在が、声が、喉に小骨のように引っかかって取れない。

ナラティブが安息するというのは、それが程なく、沈黙の中にまた溶けていくからだ。
それはもちろん記録の中には残るのだけれど、言葉たちが腐葉土のようにわたしたちの中に溜まっていく。そしてそれがわたしたちの沈黙を醸成していく。

わたしたちの沈黙は、無前提ではないし、無文脈でもない。それはこれまでの言葉の腐葉土でできている。でもそれを取り出すことはできない。腐葉土から、一枚の葉っぱを取り出せないのと同じだ。
そこにわたしたちの過ごした季節も溶け込んでいる。


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