「青山誠と学ぶ保育基礎講座ほいくきほんのき」に寄せて その8〜そもそも保育の基本とは
「青山誠と学ぶ保育基礎講座〜保育の読む、書く、見る、対話する」に寄せて。
今回は、そもそも基本って何?という話。
このnote、またこのnoteの先にある「保育基礎講座ほいくきほんのき」では、基本とか、きほんとか、そういう言葉を使っています。
でもちょっと待って、基本って何?
これだけ多様な保育観や保育実践がある中で、基本といったって共通するものなんてあるのかな、と思われるむきもあるかもしれません。
確かにその通りなんです。
私もこれまで複数の職場、保育現場を経験してきましたが、そのどれひとつとしてぴったりと同じものはありませんでした。
ある職場で「よし」とされていたことが、別の職場では「ならぬ」とされていることもしばしばでした。
それぞれの保育の現場では、まずもって大切にされている保育理念があり、それにむけて積み重ねられた実践があり、それが文化として形作られています。
また、それぞれの職場の季節と言いましょうか、新設園なのか、長い歴史のある園なのか、これから変わろうとしている時期なのか、これから積み重ねようとしている時期なのか、それぞれの園の状況によっても、まずもって何を基本として確認したいのか、も変わってくるように思います。
ではこのnoteや講座では、何を基本としていこうとしているのでしょうか。
それは「基本を構造として見る」ということです。
上記に書いたように、「何を」基本として見るか、基本の「中身」「内容」に関しては、園や状況によって変わってきます。
私がさまざまお伝えする基本も、私が積み重ねてきた保育実践の中からの「中身」「内容」です。
お聞きいただいた皆様の方の「中身」「内容」と照らし合わせていただくことで、自分の園の「中身」「内容」を客観的に見る機会にもなるかもしれません。
ただ、それ以上に、保育者にとって基本とは何だろうか、ということも、参加者の方たちと共に確認したいのです。
講座のねらいはむしろこちらにあります。
保育者にとって、現場とは、楽しくも、悩ましいものです。
楽しいのはもちろん子どもが楽しい。
悩ましいのは、同僚や保護者の問題ということもありますけれど、究極的には自分が悩ましいのです。
保育の現場に立つと、さまざまに自分が揺らぎます。
同僚や保護者が悩みだといっても、究極的にはそれはそうしたコントロール不能な他者に揺らされる自分というところに行き着きます。
子どもとの関わりはさらに悩ましい。
あの子への関わり方、いやそもそも見方は本当にこれでいいのだろうか。
どうして自分はこういう関わり方の幅しかないのだろう。
そうした意識にのぼる揺らぎのほかに、体調や気分などの身体的な揺らぎもあります。
保育者というのはいつでも一定の機能や役割に還元されません。
そうした時に、基本というのは、「それさえふまえておけば、揺らぎをある程度の幅に収められるもの、大事なことに立ち戻るためのきっかけを作ってくれるもの」だと、私は思っています。
たとえば、こんなことです。
私は現場に入る前には、必ず、室内や屋外(園庭のある園なら園庭、園庭がなければ保育室まえの広場の時もありました)の周辺をぐるっと歩きながら、手で触れて回ります。部屋の壁、園庭の柵、広場の樹木などに。
それが毎朝の儀式であり、私の基本だったのです。
それは、日々によって揺らぎのある自分を収め、子どもに「おはよう」を言うための自分に立ち戻るための基本でした。
だから私が「基本」や「きほん」として参加者の皆さんと確認したいのは、
「空間に触って回る」という私の基本の「内容」よりも、
「それをやっておけば、それを確認すれば、立ち戻れる」という「構造」として基本は作用しているよね、という点です。
基本というのは、
自分の揺らぎや、やる気や、体調や、天気に関わりなく、
それさえやってしまえば自動的に、強制的に、自分の心身を保育現場にアジャストできる状態に持っていける構造として作用するもののことを指しています。
だから、それぞれの園や状況によって、基本の「中身」「内容」が違っても、保育者同士が基本について話し合うこと、お互いにお互いの基本を開いて語り合うことには、とても意味があると思っています。
単に、「内容」「中身」が違うから語り合えない、なんて寒々しいことにはしたくないのです。
「中身」「内容」についての対話はもとより、それが構造として作用する様をじっくりと感じ合いたいのです。
たとえば、先日紹介した「間がけ」もそう。
講座で紹介する、「3つの目線、遠・中・近」もそう。
次に紹介する(予定の)「保育者の意見って、そんな簡単に作れないぜ」ということもそう。
それは構造として作用する基本、なのです。