ハイデガーと究極の問い
ハイデガーは、従来の哲学が存在を考察していないと言う。つまり従来の哲学は、彼が「真の存在」と考えるものを問題にしてこなかったと考えるわけだ。しかし従来の哲学もまた、彼らのやり方で存在を問題にしている。ことばとして言うなら、「存在」は間違いなくヨーロッパ思想の核心問題だったからである。このことは哲学史を学べば一目瞭然の事実なので、問題は、「存在」という言葉が問題とされたかどうかではない。ハイデガーの場合、こうした従来の思想が、「彼が存在と考えるもの」を論じてこなかったということなのだ。つまり、問題の出発点は、ハイデガーが存在と呼ぶものと従来の哲学が存在と呼ぶものが異なるということである。これは、上記の考察から自動的に明らかになる事実である。
ある人の言葉遣いが、それ以前の人の言葉遣いと異なることはよくある。古代人の考える「自然」と現代人の考える「自然」は、同じではない。昔の人が口にした「神」と私たちが口にする「神」も同じではない。そこには、時代の変化があるのであり、それが、言葉の意味を変えるのである。では、ハイデガーの言うこともそれなのだろうか。そうではない。彼は、従来の哲学が「本当の存在」を問うていないと言っているのである。
昔の人が口にした「神」と私たちの考える「神」を比較して、どちらが「本当の神」なのかを問う人はいない。ただ明らかなのは、両者が異なるということだけである。ハイデガーにとっての過去は、ハイデガーの今とは異なるので、両者の「存在理解」に違いが生まれることに不思議はない。彼がリアルに感じ取っている「存在」を、従来の哲学が論じていないということはもちろんありうる。しかし、それは、従来の思想が、ハイデガーが問題としたいトピックを論じるのに適さないというだけのことではないのか。つまりそこにあるのは、単なるズレでしかないのではないか。こうしたことなら、それは、ハイデガー一人に当てはまるのではなく、どの時代にも言えるはずである。江戸時代の世界観で現代を語ることはできない。現代の価値観で百年後の世界を語ることはできないのである。
確かにハイデガーは<彼自らが考える「存在」>を思索したわけだが、究極の問題は、それが<従来の思想が考えた存在>よりも「真」であるのかどうかである。繰り返すが、ハイデガーがリアルに思ったトピックを、従来の哲学が問題にしていないということは、もちろんありうる。しかしそういうことを言うなら、彼のみならず、「私が考える存在は、従来の思想が考えてきた存在とは異なる」と言える人はいくらでもいるだろう。そう、言うだけなら誰でも言える。問題は、そこに差異を認めることに留まらず、自分が考える存在こそが真の存在だと言えるのかどうかである。
日本人にはなかなか理解しがたいことだろうが、ヨーロッパの思想において「存在」という語は、格別の意味を持っている。それは、究極概念であり、その先が語れないとされたトピックなのである。つまりこれを問うことは、究極問題に取り組むということにほかならない。では、ハイデガーはどうか。もちろん彼も同じである。彼にとっても存在は究極の問題である。
となると、問題は、その「究極性」の理解ということにありそうである。
ここで問われるべきは、ハイデガーが「真の存在とみなした何か」が、本当に究極のトピックなのかである。ハイデガーは、ある時期以降、存在を「性起」という表現で語るようになるが、それは現象していない何かが現象するという動きを言うのだろう。しかし、普通に考えて、これは究極のトピックではない。と言うのも、「現象していない何か」、つまり彼の言う「非真理」もまた、ある種の存在性を持つのだから(全く何もないというわけではないのだから)、その存在の出どころが問われうるからである。つまりその先が問いうる。もちろんその非真理を無と呼べば、問題は解決したかに思われるのだが、そうではない。その無は、決して「存在しない」という無ではないからである。ここには、明らかに、「無」という語を用いたトリックがある。
ハイデガーは、言葉の魔術師などとも言われるが、人を言葉で幻惑し、問題の核心を誤魔化しているという意味ではその通りである。
私は、ハイデガーフォーラムという場で、「ハイデガーの語る無は、決して究極の無ではない」という指摘をしたことがあるが、ハイデゲリアンからの反論は皆無であった。そもそも彼の言う「非真理」が、「いかなる意味でも存在するとは言えない無」であるなどという理屈が通るはずがない。なぜなら、それがそういう無であるならば、絶対にそこからは何も現象しないからである。
これは子供でもわかる。
しかしハイデガーと、その信奉者たちには、この程度の理屈も通じないらしい。恐らく彼らには、子供でもわかる理屈をひっくり返せる何かがあるのだろう。しかしその「何か」が通じるのもまた、彼らの間だけなのである。