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学問の民主化
学問が民主化するというと、それは良くなる傾向のように聞こえるかもしれません。
古代ギリシアをしっかり見れば分かる通り、民主主義と哲学(学問)は、不可分の関係にあります(このことが分かっている日本人はきわめて少ないようですが)。学者の間に権力の上下関係がある場合、つまり民主的な状況が担保されない限り、自由な議論は不可能ですし、(今日的な意味での)学問も生まれません。
そういう意味では、学問は「誰にでも開かれたもの」であるべきです。しかし民主主義というものが「常に」衆愚政治に陥るリスクを抱えているのと同様に、「学問の民主化」もまた両義的です。
学問は、知性を研ぎ澄ましていくことで成立します。そしてそれを研ぎ澄ますためには、知性をできる限りそれ以外のものから切り離さなければなりません。つまり欲望や感情といったものから切り離さないといけないのです。学問そのものに、それを営む者たちの欲望や感情が入り込んでしまえば、それはもはや学問ではありません。もちろん学者も人間ですから欲望や感情を持ちますが、だからこそ、それらの影響をできる限り排除することが求められるのです。これは、ありとあらゆる学問に共通のルールであり、このルールを確立したのが、最初期の哲学者たちなのです。
何度も繰り返していますが、欲望の先に真理は存在しないのです。自分を満たすものが真理なのではない。真理は、私達の欲望や感情を満たす「ために」あるのではない(結果的に満たすことはあっても、それを満たすことが目的ではない)。「私を満たすものこそ真理なのだ」というのが実存主義なら、実存主義は学問ではあり得ませんし、もちろん哲学でもあり得ません。<「私を本当に満たすものが真理なのだ」なら、まだ分かります。そこには「本当に」という副詞が入っているからです。>
学問が民主化すると言われるとき、そこに参与しようとする人々は、こうしたハードルを意識しなくてはいけない。さもないと、それは哲学、つまり学問ではない。しかし学問が民主化すると言われるときに、このハードルが意識化されることは滅多にありません。そこで言う民主化とは、「誰でも口が挟める」「誰でもその学(の内容)について語れる」ということです。つまり「欲望を満たすものが学問だ」と信じている人でも、学問(の内容)について口が挟めるというのが、「学問の民主化」と呼ばれるわけです。ですが、それは、その学問が学問であることを破壊することにつながります。
「学問は客観性が大事だ」と、よく言われますが、それは、個々人の欲望や感情が反映してはいけないということの言い換えです。特定の利害意識が反映されてしまえば、そこに学問はない。カントが、「学問のみが公共的な理性使用である」と言ったのは、まさにこのことの裏返しです。
近年、医療の現場でよく見かけるのが、患者がインターネットで調べた情報で、医者に質問したり、反論したりするというケースです。この事自体には何の問題もないわけですが、医学についての知識がないと、多くは、混乱するだけで終わることになります。ネット空間にあふれる情報のどれが正しいかを判断する能力がないからです。もちろん不勉強な医者がいて、新しい情報を知らないなんてこともありますが、だからといってネットの情報を「最新の正しい情報だ」と鵜呑みにするのも危うい。これこれといった内容の最新論文が書かれている、とあっても、それはまだ医学界で認められたわけではありません。論文掲載というのは、それだけでは、その主張が認められたということではない。また、一部の医者が一部で語っていても、それだけでは<まだ>医学的「知識」にはならない。こんなことは学者なら誰でも知っていることですが、逆に学者でない人には分からない(新聞記者でも分からないから、最新論文の内容がセンセーショナルであれば新聞に掲載されて、人々がそれを正しいことだと信じてしまう)。
<情報リテラシーという言葉がありますが、そのリテラシーには、情報の真偽を判断する能力が含まれているはずです。しかし、そこまで踏み込んで情報リテラシーを語る人は稀です。>
学問は、誰でも参加出来ますが、参加するためには、そのルールを知らなければなりません。本来、学校教育というものは、そうしたルールの存在を教えることのはずですが、残念ながら、今日の教育に、そういった意識は希薄です。だから、学校で色々な「学問」を学んでも、そのルールが意識化されない。その結果、ルールの存在も知らず、当然、ルールを無視した人間が、その学問の内実に口を挟むということが起こる。問題はここからです。
学問には、それを語るためのルールがある、という常識がある社会では、ルールを無視した人間が学問に口を挟んでも、笑われるだけで終わります。しかし社会の多数が、こうした「ルールの存在を知らなくても学問に口を挟んでも良い」と思うようになれば、話は別です。ルールを知っている専門家とルールを知らない非専門家の主張が、混在することになる。
近代に入ってマスコミが発達すると、一応、マスコミが「正しい情報」を流通させるという役割を担いました。そこが、デタラメな情報と正しい情報を見極めるという役割を果たしていました。日本でも一昔前のマスコミは、専門家の言葉だけを載せていたのです。しかし今では、普通の新聞ですら、インフルエンサーの発言を平気で掲載しています。おそらくそれは、「世間の意見の代弁者」といった役割を、彼らに見て取っているからでしょう。この段階ですでに、「情報の民主化」が現実化していると言って良いわけですが、それに輪をかけているのが、ネット空間です。
ネットには、多様な言説が、なんのルールもなくあふれています。デタラメであろうが、反社会的であろうが、おかまいなしです。その発言のほとんどは、匿名で行われますから、それぞれの発言の信頼性はほぼゼロです。つまりほとんどのコメントが無責任に発信されている。問題は、ネット空間をさまよう人々に、それらの中から、正しい情報を選び取る能力があるかどうか、です。
と、言いたくなりますが、実は問題の根はもっと深い。
現実は、ネットをさまよう人々のほとんどは、「何が正しい情報かを見分けなければならない」という意識すらない、ということです。見分けるためには、見分ける能力が必要ですが、そもそもの話、「自分にその能力があるかどうか」を自問する人は稀なのです。つまり、誰もが「自分にはその能力がある」と信じているので、「選び取る能力があるか」と問われても、彼らはただちに「ある」と答えるのです。
実のところ「ない」のに、本人は「ある」と思う。「無知の知」をもじれば「無知の無知」ですが、こうしたことが起こるのも、ほとんどの人間が、自分を無知だと自覚していないからです。自分は、専門家ではないにせよ、学校を出ているのだから(今では半数以上が大卒です)、そんなに無知なわけがない。しかしくどいようですが、真偽の判定には、それなりのルールがあって、そのルールをわきまえていない人間には、その判定は出来ません。
ソクラテスに従えば、「自分は愚かだ」と自覚できるのは、実のところ、相当に賢い人間だけで、大半の人間は、「自分が愚かだということが認められない」くらいに愚かなのです。
学問はクリティカルでなければならない、と言われますが、ここで言う「クリティカル」とは、何よりも自分の考えに対して批判的である、懐疑的であるということです。学者は、自分の考えに対して、他の誰よりも批判的でなければならない。そういう自己に対する批判的な考察のみが、他者からの批判に耐えるものとなりうる。そしてそうした批判の積み重ねを生き抜いたものだけが、学問的な知識として認められる。
学問的な知識というものは、こうしたスクリーニングを何重にも経ているのですが、学校で色々なことを学んでいるにもかかわらず、人々の大多数は、こうした「学問の事実」すら知りません。知らないから、まるで無批判な発言を、学問的知識と「同等に」扱うといった愚行が一般化する。そう、それは紛れもなく愚行です。
もちろん学問的知識は、「常に」正しいわけではありません。学問が人間の営みの結果である限り、そこには不完全さが残り続けます。それを完全な知識と考えるのも愚かなことです。しかしだからといって何重もの批判を生き抜いた知識とそうではない発言を「同等に」扱うのは馬鹿げています。非専門的な発言が正しいこともあり得ますが、それが「正しい」とされるのは、その意見を正しいと思う人の数が多いことによるのではなく、やはり、学問的なルールを踏まえた上で吟味されて初めて、「正しい」となるのです。
では、逆に、学問は学者の独占物なのか。学問については学者のみが発言できて、素人はそれを鵜呑みにするしかないのか。学問的知識が不完全である限り、そこに批判の余地は常に存在します。従って、学者が持つ学問的常識の問題を、学者ではないからこそ(その学問的常識を有さないからこそ)、気がつくということはあり得ます。だから、学問は常に「開かれていなくてはならない」。学問の民主的性格とは、こういった仕方で発揮されるべきなのです。
自分たちが持つ知識が不完全であることを自覚した上で、その不完全性を出来るだけ克服しようとするのが学問です。そしてそこには、明確なルールが存在する。自分が正しいと思うだけでは、正しいことにはならない。
こんなにも基本的なことが、まるでおろそかになっているのが、現代社会です。日本のみならず、世界中で、学問軽視の嵐が吹き荒れているのは、教育に哲学がなくなったからでしょう。教育のアルファにしてオメガは、「自分は無知である」という自覚なのです。