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神との問答

ヨーロッパには、絶対者と呼ばれる神がいる。その神を信じる人の数が減っているにせよ、その文化には紛れもなく、絶対者と見なされている神がいる。

したがってそこで展開される思索のすべてに、そうした神は含まれることになる。ニーチェ以降の欧米哲学がすべて無神論的であるというのは、そうした神を信じることがない日本人には都合の良いフィクションだが、事実はそうではない。神という名前が使われなくても、問題を掘り下げていくと最後に現れる「何か」が想定されているのが彼の地の哲学なのである。

他方、日本人にとって、そうした絶対者としての神は、キリスト教とともに入ってきた外来の存在である。つまり自前の思索からは問題にならない。多神教的な文化を持つ私達にとってユダヤ教・キリスト教(つまりヘブライズム)は、木に接がれた竹なのである。

よく欧米文化に対して、日本文化は「瞬間に美を見て取る」と言われる。美ははかないからこそ美なのだ、というわけである。桜は散るからこそ美しい。こうした感性が、永遠の美、つまりイデアを究極の美とする彼の地の感性と同じであるはずがない。そうした感性の違いは、嫌というほど強調されてきたのだが、現実の思想研究の世界では、まったく無視されるのはどうしてなのだろう。どう考えても、彼の地の哲学は、私達の感性には合わない。にもかかわらず欧米哲学の研究者達は、それをさも当たり前のように受け入れている。それはどうしてなのだろう。

大学で哲学の教員が、欧米の哲学が真理を語っているかのように説明すると、それを聞いている学生達は、ほとんど何の疑問も抱かず、そういうものだと思い込む。つまりそこに疑問はわかない。「自分の頭で考えろ」と言っているにもかかわらず、教員達自身が、そうやって欧米の思想を受け入れてきたのである。

私は、随分と長い間、「哲学は異文化である」と言い続けてきた。日本人が哲学を理解するには、まずそれが異文化であり、それを問題にするためには、自分自身で、その異質なものへの渡り廊下を作らねばならない。この国の哲学教育に欠けているのは、こうした渡り廊下なのである。

今回は、そうした渡り廊下として、一つの物語を語ってみよう。

あなたが、この世の生を全うして、亡くなるとする。死ねば終わりだということもありうるが、来世がないことも証明されてはいない。そこで、とりあえず来世があることにしよう(実際、世論調査によれば、日本人の多くが来世の存在を信じている)。

あなたは、死んだ後、キリスト教が言うように(そして仏教が言うように)あの世で裁かれるかもしれない。しかし、その裁きが、納得がいかないものだったらどうだろう。あなたは、その裁きに異議申し立てをする。ところが相手は、「これは神の裁きなのだから、絶対で、正当である」と言う。つまりあなたの異議申し立ては受け入れられない。その時、あなたはどう思うだろう。そこで受ける罰に納得がいかなければ、その罰を受ける間中ずっと、あなたはどう思うだろう。

もちろん相手は神なのだから、こちらの異議申し立てに対して答えてくれるかもしれない。そしてその答弁にあなたは納得するかもしれない。しかしここで言う「納得」とはどういうことを言うのか。その答弁に納得するのは私の感性だろうか、それとも知性だろうか。何しろ相手は神なのだから、私の感性や知性を思いのままにするのはわけないだろう。つまり私が納得しても、それが「本当の納得であるのかどうか」を私自身、知ることは出来ないのである。

人々は、「自分が思っていることは、自分の考えだ」と信じて疑わない。しかし少し考えれば分かることだが、私達が考えていることの多くは、「自分の」考えではない。どこかから吹き込まれた考え、何となく身についただけの答えであることがほとんどである。「そんなことはない」と主張したがる日本人は多いが、ほんの数分、問答するだけで、それが単なる「(借り物の)思い込み」であることは明らかとなる。

世界文学の古典中の古典である『イリアス』では、登場人物達が、神によって動かされている。アキレスが怒りに震えるのも、神がそうさせているからである。現代人は、自分以外のものによって自分の心が動かされることなどないと信じているが、本当のところ、こうした『イリアス』の表現は、人間の本質をついている。人間の喜怒哀楽は、その人間自身から生まれるのではない。人間の心理の奥底には、その人間以外の何かが働いている。おそらくそちらの方が正しいのである。

相手が神であれば、私の心ですら彼の思うがままにすることも容易だろう。とはいえ、それでも私の知性が、その神の答弁に納得しないことがあるかもしれない。知性だけは、神によって支配されず、神の言葉が正しいのかどうかを裁けるのかもしれない。これは神と知性の関係をどう捉えるかという問題で、結局のところ、神が「AはBである。BはCである。ゆえにAはCである」といった論理を変更できるかどうか、という問題となる(実際、この問題はキリスト教神学の大きな問題の一つであるし、哲学史においてもデカルトが論じたことで有名である)。

とりあえず知性だけは、神によって支配されない(=神ですらそれに従わなければならない)としよう。知性だけは、神に対峙できるというわけである。その知性が、神に向かって「あなたが正しいとどうして言えるのか」と問うたとしよう。そこで神は、知性が納得するような答えを返せるのだろうか。知性は、神によって必ず納得するのだろうか。ここで問題となるのは、私の知性は神の知性ほど優秀ではない、ということである。神がいくら説明しても、私がそれを理解しなければ、そこで真理の伝達は起こらない。そうなると、どうしても最後には、「これは神の判断なのだから、認めよ」という判決だけが残ることになる。

しかし、そもそもの話、私を裁いた者が、なぜ神だと言えるのか。あの世において、何やら途方もなく威厳のある存在が「私は神である」と言えば、それが神であることの証明になるのだろうか。人は、「神が神である」ことを、どうすれば知ることが出来るのか。

ある存在が「私は神である」と言ったとき、それが本当かどうかを、私達はどうすれば知ることが出来るだろう。拙著『神の放下、神の突破』でも書いたが、現代世界にも「私は絶対者である」とか言う教祖はいくらでも存在し、それを信じる人もいるのだが、その人物が神だとどうして言えるのか。何をもって、その人物が神であると判断するのか。

私の心の内を透視すれば神か。明日のことを見事に言い当てれば神か。空中に浮遊することが出来れば、それは絶対者なのか。どれももちろん不思議なことである。人間の能力を超えているのかもしれない。しかし人間の能力を超えたくらいで絶対者と呼ぶのはいささか早計すぎるように思われる。

では、何が出来れば絶対者なのか。イエスが述べたように「山を動かせば神」なのか。そう言ったイエスは、後に神とされるのだが、それはどうしてか。歴史的に見れば、彼が死後復活したという伝承が広がったからである。では、死後復活すれば神なのか。もちろん人間には、死んだ後で復活するなどということは出来ない。それは人間の能力を超えたことである。しかし人間の能力を超えれば神なのか。多神教の世界であれば、文句なしに神認定されて良いだろうが、何しろキリスト教の神は絶対者である。死後復活するだけで、どうして神認定されるのか。

イエスの復活は、その神が私達の生を意のままに出来るということとして理解されてきた。つまり生死を意のままに出来れば神なのである。しかしそれだけでは、その存在が「究極の絶対者」であることの証拠にはならない。それが私達人間を超えた存在であることは分かっても、それだけでは絶対者であることの証拠にはならないのである。

こういう議論をすれば、「私達の人生を意のままに出来るだけで、十分神とみなして良いではないか」という人が現れる。いや、それどころか、そういう考えの方が普通であろう。しかしもしそうだとしたら、現実の世界の中で、私の人生を意のままに出来る人がいれば、それは神なのではないのか。そして、現代社会にも、そうした神に匹敵する権力の持ち主は存在するのではないのか。

ひどい会社に入れば、自分の上司の一言で、自分の人生が決まってしまう(少なくとも短期的には決まってしまう)ことはいくらでもある。では、その上司は神なのだろうか。そう、人は理解していないが、その上司は、その人物にとって神なのである。神というものを、「人生を左右するもの」とみなすのであれば、紛れもなく、その上司は神なのである。

もちろん、こういう言い方に納得しない人は多い。しかし神を「人生を左右できるもの」と捉えるだけなら、その定義からして、その上司は神なのである(私の Meister であるエックハルトは、こういった言い方で普通の人々の信仰を批判している)。

神は、なにゆえに神なのか。多神教世界に生きている私たちだけでなく、キリスト教世界に生きている人々のほとんどが、この問いを真剣には問うていない。それは、どこかで思考をやめるからである。「神は、あの世で出会うであろう威厳ある存在だ」と想像している人にとっては、相手が絶対者であろうが、そうでなかろうが、どうでも良いのだ。自分が相手を神だと信じれば良いだけの話だから。しかし私を裁く者がいるとしても、それが神である証拠はどこにあるのか。その裁きが絶対に正しいと言えるのはなぜなのか。その問いに踏み込まなければ、私達は、本当に納得して罪を引き受けることは出来ないだろう。もちろんキリスト教の神は、私を創造した存在であり、私の存在を意のままに出来るだろう。しかし私の存在を意のままに出来れば、それで絶対者と認定して良いのか。

哲学者、神学者と呼ばれる人々のほとんどが、こうした問いに進まない。私には、こんなに中途半端なところで、思考が止まってしまう理由が理解できない。

拙著『神の放下、神の突破』は、こうした思考の果てに書かれたものである。こうした議論に関心を持たれた方は、是非拙著に挑戦していただきたい。




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