知性は死滅しつつある
多分、これを読む人の多くは、なんと大げさな、と思うことだろう。
申し訳ないが、そう思える人は「おめでたい」。
世界が猛スピードで反知性化している。
知性は育成しなければ育たないのだが、もはやその育成機関そのものが反知性化している。
私の目には、今現在、人類が築き上げできた知の大伽藍が、音を立てて崩れ落ちているのが見えている。
これは残念ながら、予言でも何でもない。未来の話ではない。知性を持った人々は、他の人々も知性があると錯覚している。しかし後者には、能力としての知性はあっても、育成されていないのだ。働いていないのだ。
学校の教師たちは、子供たちの成績アップが教育の目標だと勘違いしている。成績が大事なのではない。真理が大事なのだ。そしてその大切な真理を追求する能力こそ、知性なのだ。そういう意味では、間違いなく、ジャーナリズムは真理の番人である。そして今、世界のジャーナリズムは死滅しつつある。
この国、いや、現代世界において、このことが忘れ去られようとしている。
私は、自分の人生をかけて、知性の尊さを語ってきたつもりだが、あまりの微力さに絶望するしかない。
世界のどこを見ても、知性という言葉を見かけない。哲学アカデミズムにおいてすら見かけない。
孤軍奮闘どころではない。同業者からすら水をかけられる始末。
誰もが、「自分の目の前のことを精一杯」とか言う。目の前のことは大事だが、それだけでは絶対にダメなのだ。多くの知的な人々が、そうやって大きな問題から逃げている。地位のある人々も、地位のない人々も。誰もが、世界に対する責任を負っているのが現代なのだ。目の前のことだけに尽力するというのは知的な人間のすることではない。誰もがそんな余裕などないとも言う。嘘である。もっと余裕のない私が、それと戦い続けてきているのだから。
この声に反応する者は、自ら声を上げて欲しい。それが出来ないなら、せめてこの声を拡散して欲しい。あなたたちの未来がかかっているのだから。あなたの家はすでに燃えているのだ。