哲学、ここだけの話(いわゆる究極の問い)
ハイデガーが言及して一躍有名になった問いがあります。
<今回は少し哲学的な考察をします>
「なにゆえ存在するものが存在して、無ではないのか」
これは元々ライプニッツの「なにゆえ無よりもむしろ或るものが存在するのか」という問いを少し言い換えたものです。ハイデガーは、この問いを「形而上学の根本の問い」と呼んで、自分はこの問いに挑戦するのだと言って一世を風靡します。二十世紀最大の哲学者と呼ばれることの多いハイデガーが「根本の問い」と言ったのですから、その影響は絶大でした。
ここで「存在するもの」と言われているのは、「ありとあらゆる存在するもの」つまり万物、一切です。ありとあらゆるものが存在するのはどうしてか。これは、この世界があるのはどうしてか、という問いに留まらず、もし世界を創造した神がいるとしても、その神もまた「存在するもの」なので、「世界を創造した神がいるとして、その神が存在するのはなぜか」をも問うているのです。とにもかくにも、「存在するもの」が存在する究極の根拠は何か。
日本は世界で最もハイデガー研究の盛んな国です。私の周りだけもハイデガーを専門とする人間が十名近くいます。その中には、有名なハイデガー研究者もいます。そういう意味では、ハイデガー研究は身近なところにある。
ところが、どこを見渡しても、上記の「形而上学の根本の問い」を自らの問題として引き受けているハイデガー研究者は見当たりません。これは私が知らないのではなく、本当にいないらしい。つまりハイデガー研究者は、あの問いを「形而上学の根本の問い」だと思っているが、自分の問題だとは思っていない。なぜなら彼らが問題にしているのは「ハイデガーの」思想であって、ハイデガー自身が問題にした「問題」ではないからです。つまり彼らは、哲学の問題である「存在の問い」を考察せず、ただひたすらハイデガーが何を言っているのかを考えているらしい。こうしたことに気がついたのは、ハイデガーやハイデガー研究文献を二十年以上も読んだ後でした。恥ずかしながら、それまではずっと、ハイデガーを研究している人は、存在を問題にしているのだと信じていたのです。
ハイデガー研究者の書いている本や論文をいくら読んでも、ハイデガーのテキスト以外のことは書かれていない。しかもハイデガー文献の多くは、彼の主著と目される『存在と時間』を扱ったもので、中期や後期ハイデガーを論じたものはかなり少なくなります。ところが『存在と時間』という著作は未完です。この本は、「存在の問い」を問うための予備的考察として書かれ始めたのですが、それが途中で途絶したということは、著者自身が、「これではうまくいかない」と思ったということです。
ところがその著作を、すごくたくさんの人がいまだに考察の対象にしている。それだけハイデガーがすごい哲学者だとも言えるのでしょうが、それを踏まえても、こうした現象は私には不思議なものに思えます。というのも、ここでの哲学的問題は、なんといっても「存在」だからです。もちろんハイデガーの思想から何を学ぶのかは、研究者一人一人の自由です。しかし誰もハイデガーが問題にした「事柄 Sache」を問題にしないとなると、誰が存在を問うのか。
こういったことを知れば知るほど、私には、ハイデガー研究というものが何を目指しているのかが分からなくなります。こうした疑問や疑念が積み重なった結果、私はハイデガーにかなり批判的になりました(私のハイデガー批判は、『ハイデガー・フォーラム』という電子ジャーナルの第六号に掲載されています)。
冒頭の問いに戻ります。いまだに一部の研究者の間では、あの問いは、「究極の根拠」を問う問いだと見なされています。しかし単純に考えて、存在の究極の根拠が「存在する」としたら、その根拠も「存在するもの」になるはずです。となると、その存在するものの根拠が問われる。しかしそうだとすると、それは、そもそも究極の根拠ですらなかったということです(その先があるならそれは究極ではない)。実際、キリスト教世界では、こうした問いかけは最終的に「神の根拠は何か」となります。しかし神に根拠があるとしたら、神は究極ではないということになって……。どこでも終わりません。そう、こうした問いかけをいくら続けても、究極の何かに行き着くことはできそうもありません。実際、ハイデガー自身もまた、その答えを出しませんでした。一世を風靡したハイデガーは、自らが立てた問いに答えることはなかったのです。
では、ハイデガーですら答えが出せなかった問いに、答えはあるのでしょうか。答えはあります。奇妙な答えですが、「答えがない」が答えです。その問いには答えがあっても私たちには答えられない、ではなく、端的に「答えはそもそも存在しない」。ここで大切なことは、「答えが存在しないこと」を説明できるということです。ここでは、その説明はしませんが、こうした答えがそもそも存在しない問いを擬似問題といいます。では、論理の天才であったライプニッツが、なぜ、そうした擬似問題を立てたのか。
実はライプニッツの問いは、擬似問題ではありません。これは上記の説明と矛盾しているようですが、矛盾しません。なぜならライプニッツの問いは、人々が理解しているような(従って、ここまでの説明にあったような)意味ではないからです。事実、あの問いに対して、ライプニッツ自身はしっかり答えを出しているのです。
ライプニッツのあの問いは、実は「或るものが、存在しないのではなくて、現実に存在するのはなぜか」を問うています。分かりにくい日本語ですね。説明しましょう。ここにコーヒーカップがある。それは現実に存在しています。しかしそれが現実に存在しないこともある。しかしもし世界中からコーヒーカップがなくなっても、神の知性の中には、コーヒーカップの原型(ライプニッツの言葉で言うと「本質」)となるものがある。なぜなら神はこの世の一切のものをあらかじめ知っているからです。しかし神の中にあるだけのコーヒーカップは「まだ」現実には存在していません。それは神の知性の中にあるだけで、まだ現実化していない。つまり可能性としてのみ存在する。現実にはまだ存在していないものは、当然「存在しない」。こうした「まだ存在していないもの」(つまり可能性)を、ヨーロッパでは「無(ギリシア語では「非存在」)」と呼びます(それは一種の「存在しないもの」だからです)。現実化していない可能性は無です(これはアリストテレスがすでにそう言っている)。こう考えてくると、ライプニッツのあの問いが意味するのは、「或るものが可能性に留まるのではなくて現実存在しているのはなぜか」ということになります。これがライプニッツの問いの正体です。その証拠もあります。彼は、この問いに対して常に「本質は現実化しようとするものだからだ」と答えているからです。
ものの本質は、現実化しようとする。これがあの問いに対するライプニッツの答えです。こうした問いと答えは、ライプニッツのテキストから、いくらでも拾ってくることができます。ライプニッツ研究者ではない私が、こんなにも簡単に拾い出せるのですから、こうした解明に行き着くのは簡単なことのように思えます。ところが、世界中のライプニッツ研究が、この答えに行き着いていない。どうしてなのでしょうか。
冒頭で書いたように、この問いが注目を浴びるようになるのはハイデガーが言及したからです。実際、欧米の著名なライプニッツ研究を読んでも、この問いを主題化しているものはありません。つまりライプニッツ研究においては、主要問題だとは思われていなかったのです。それがハイデガーが「形而上学の根本の問い」などというものだから、一躍哲学の大問題に祭り上げられたのです。そうなると人は、ハイデガーのようにこの問いを解します。普通にライプニッツの文章を読めば、私が解するような意味だと分かるはずなのですが、誰もそう読まなかったのです。ハイデガーの読みに引きずられたとしか思えない。
他方で、ハイデガー自身のこの問いの扱いは微妙です。と言うのも、ハイデガーが述べた「形而上学の根本の問い」は、「なぜ存在するものがそもそも存在して、無ではないのか」というものであって、ライプニッツの問いとは微妙に違うからです。このあたりの問題は、もう一度ハイデガーのテキストを確認しないといけないのですが、彼自身は、ある時期以降、ライプニッツの問いを私と同じように読んでいた可能性が高い。しかし、もしそうだとしたら、あの問いをいまだに根本の問いと呼び続けているハイデガー研究者がいること自体、こんなに滑稽なことはありません。
どれだけ人は権威に弱いか。そして一旦そう思い込むと、それ以外の可能性が見えなくなるか。権威主義を問題にする心理学の対象にしても良いくらいです。
なお、この議論は、拙論「ライプニッツにおける『可能性』と『無』」(『京都ノートルダム女子大学研究紀要・第52号』)が詳細に扱っています。