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ダンジョンゲームとしてのハイデガー哲学

ハイデガーの著作は、一つ一つのトピックが、それぞれ大きな問題を抱えています。『存在と時間』を読んでいると、どのページにも、「本当にそうか?」と思える論述に突き当たります。こうした疑問を抱えてハイデガーの研究書を読んでみるのですが、残念ながら、そこに、私の疑問を氷解させてくれる記述は見当たりません。研究者たちは、「ハイデガーによれば」とか「ハイデガーはこう考えている」と述べるだけで、それが「本当にそうなのか」を問題にしていないからです。

ハイデガーは自らの思索を「道」だと述べていますが、彼の研究をするものは、その道を歩まねばならないそうです。これは、哲学者の物言いと言うよりも、教祖の物言いです。だから信者たちは、「教祖いわく」と繰り返す。日本には、本国ドイツよりも多くの信者がいて、その思想を世間にばらまいているので、「ハイデガーはすごい」という評価に疑問を抱く人は皆無と言って良い(反論しても無駄なので、誰も反論しない)。

では、その道は、どこにつながっているのでしょう。真理でしょうか? どうやらそうではないらしい。それが真理であれば、すべての哲学者が、彼の道を参考にするでしょう。プラトンや、アリストテレス、デカルトやカントといった「本物の哲学者」と同様に扱われることでしょう。しかしそうはなりません。

彼の著作は、次から次へと現れてくるダンジョンです。しかも現実に存在するダンジョンではなく、作られたダンジョン。つまりダンジョンゲーム。ダンジョンをクリアして次のダンジョンに進めば、達成感が得られます。私には、ハイデガー研究が、そういったダンジョン攻略に専念しているだけに見えます。

しかしそれはゲームですから、得られるのは達成感だけで、現実には何も起こりません。それは現実とは別の作り上げられた創作物、フィクションだからです。もっと言えば、現実に対する「憂さ晴らし」ですらある。日本人が彼の思想に惹かれる理由でしょう。

(むろん、そこには少なからぬ「心引かれる台詞」がちりばめられているのですが、それはあくまでも個々の文脈の話であって、トータルな議論がフィクションでしかないことを覆い隠しています)

(ちなみに私の「無ではない」を巡る議論も、現実生活に対して無意味かもしれませんが、それでも真理だと言える根拠があります)

真理に至るための参考にもならない(と言うのも、誰もその道の先を探ろうとしていない)フィクションを哲学と呼ぶのは不思議なことです。

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