哲学という危険な営み
私は、講義で、常識とされている事柄を「本当にそうだろうか」と疑って、学生に問いかけます。
これは、ソクラテスのやり方ですが、哲学の教師のほとんどが、真似をしません。どうしてか。
危険だからです。危ういのです。
たとえば「命は尊い」という常識があります。私は、「本当にそうか?」と問うのですが、皆さんが受講者ならどう思うか。たいていの聞き手のリアクションは、「そんなの当たり前だ」というものですが、もちろんそれでは答えになっていません。ここで言う「当たり前」は、みんながそう思っているというだけのことであって、その正当性の根拠を示してはいないからです。
どうして「命は尊い」と言えるのか。その根拠を、この問いは問うているように見える。これは危険な問いです。そこに答えが見つからなければ、その常識が根拠を失ってしまうからです。「命は尊い」という常識が揺さぶられるとどうなるか。現代社会の常識の多くが崩壊する、と思われている。だから、「命は尊い」という常識に疑問を抱いてはいけない。それは、まさしく神聖不可侵な命題なのです。
そうした不可侵な命題に疑問を抱くとは、「不謹慎な」行為です。それは、ヨーロッパ中世において「神は存在するのか」という疑問を抱くのと同じくらい、危険な行為です。だから誰も問わない。
では、この常識は、本当に社会に通用しているのか。「命は尊い」という命題は、命の価値が絶大であると言っています。それは、絶対に他者が奪ってはいけないものだと。しかし現実には、今でも他者に奪われる命は後を絶ちません。それどころか日本の場合、法律によって、他者によって奪われる命がある。そう、死刑という制度です。
「命は尊い」という文は、ほとんどの人にとって「他人が、人の命を奪ってはいけない」ということを意味する。では死刑はどうか。死刑は、死刑囚が自分から死ぬのではありません。死刑囚は、殺されるのです。こういう話をすると、「それは罰なのだ」と言う人が必ず出てきますが、この場合、罰であるかどうかが問題ではなく、「自分から死んでいるか、殺されているか」が問題です。さらに言えば「罰ならば、殺しても良いのか」という問題です。
死刑囚は、殺されるだけのことをしたのだ。そう言う人は多い。しかしそれは、「殺される命」を認めていることです。つまり「尊くない命」を認めていることです。「命には尊いものと尊くないものがある」と言っているのです。ここまで来ると、「そんなの当たり前だ」という人が出てきますが、だとしたら、もはや「人の命は尊い」とは言えません。すべての人の命が尊いわけではないからです。
「人の命は尊い」という常識に疑問を抱くと、不謹慎だと言われるのですが、不謹慎だという人々自身が、「あらゆる人の命が尊い」ということを「積極的に」否定している。
私は、あくまでも「問うている」だけで、それを否定しているわけではありません。他方、問う私を不謹慎だと言う人(の多く)は、それを現実には否定している。
私が、あの常識に疑問を提出しているのは、まさに「現実には人の命は尊いと思われていない」からです。つまりここでの私の問いは、ソクラテスの問いと同じく、「当該の命題を疑っている」と言うよりは、「当該の命題が何を語っているか」を問うているのです。
世間が言う「人の命は尊い」は、何を語っているのか。繰り返しますが、これは危険な問いです。誰にとって危険かというと、実は、それが常識だと信じていながら、他方で「その常識が否定されている現実を肯定している」人々です。つまりこの世の大多数の人々です。彼らは、一方で「命は何物にも代えがたい」と言いつつ、他方で「殺されても良い命」を認めているのです。
ソクラテスは、こうした問いかけを続けた「せいで」死刑になりました。哲学的な問いは、哲学者の命を奪うのです。私にとって、誰よりもソクラテスこそが真の哲学者であるのは、まさに命を賭して問い続けた人だからです。だから、私は、世間どころか、哲学者たちが常識とするものにすら疑いを持ちます(こんなことは当たり前すぎて、書くのも恥ずかしいくらいですが)。幸いにしてソクラテスのように殺される恐れはありませんが、この国の場合、哲学者の常識に疑いを抱くと、哲学者の世界から弾き出されます(少なくとも日本では、私は完全なアウトサイダーです)。
<たとえば、究極概念を「存在と見るか。無と見るか」といった東西の伝統の違いがありますが、私はそのどちらにも与しません。「無ではない」が究極だからです。ライプニッツの「いわゆる究極の問い」は、実は究極の問いではなく、「あるものが可能性に留まる(無である)のではなくて、現実に存在しているのはなぜか」を意味しているだけだ、と指摘しても、誰も反応しません。こういった解釈は、従来の理解に反するからです。>
哲学者たちの常識に疑いを抱くと、哲学アカデミズムから弾き出される。しかし哲学の歴史を見れば、常に時代を切り開いてきたのは、当時の常識を破った人たちです。それが、現代では通用しない。少なくともこの国ではまるで通用しない。日本の哲学アカデミズムがやっていることは、欧米で認められた哲学(それに京都学派の哲学を含めても良い)を消化すること、悪くいえば、後追いすることです。自分たちが、従来の常識を破ろうとは思っていない。現代思想と言っても、そこで語られているのは、欧米(特にフランス)哲学の紹介に過ぎません。だから、日本人が、従来の常識を破ろうとしても、その試み自体を否定する。
そう、恐ろしく保守化している。そして本人たちは、そうした保守化している自分を自覚していない。
ハイデガーやデリダといった人々は、明らかに、従来の常識に異を唱えた人々です。しかし今では、彼ら自身が見事に神格化されて、その研究そのものが保守化している。「ハイデガーを批判の対象にしてはいけない」といった空気があるのが、この国なのです。
いつも言うことですが、こうなればもはや、そこに「哲学的な」問いは存在しません。せいぜいが、ハイデガーは何を語っているのか、という問いだけです。しかもそれこそが、何よりも大事だと言われる。しかしソクラテスの問いの本質は、「誰が何を言ったのか」ではなく、「そこで言われていることはどういうことか」「そこで言われていることは真理なのか」です。哲学者たちが残したテキストは、そうした問いに資するからこそ重要なのであって、それ自身が重要なのではない。
常識の範囲内で危なげない問いを発しているのが哲学だと言うのなら、私はそんなものに興味がありません。常識の一線を越えたところで思考するのが哲学で、それは常に危うい行為です。以前、哲学とは異常な営みだ、と書きましたが、こういう意味でも、それは異常で危険な営みなのです。