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脱欧化の時代
近代社会といわれるものは、「一人ひとりの人間が、それぞれ独立した主体である」ことを前提としている。何やら難しいと思う人もいるだろうが、いわんとすることはきわめて簡単である。
ある社会では、女性は、親の持ち物でしかなく、自分が望む人生を送ることが出来ない。そういう社会を私達が見れば、「そこは人権を侵害する社会だ」というだろう。しかし「人権がない」社会においては、そもそもの話、「人権が侵害される」ということすらないはずである。「人権」という概念が意識にない社会で、どうしたら人々に「人権が侵害されていますよ」と伝えることが出来るのか。少なくともその社会に生きる人々にとっては、「女は親の持ち物である」ということが自明なのである。つまり女性は独立した存在ではなく、親もしくは男性の所有物なのだ。
こうした話は、現代人の多くが眉をしかめるものであるが、現実に起こっていることであるし、日本でも時代を遡れば、そうだったのである。つまり私達の価値観を一端脇に置けば、こうしたことが人類の歴史の中で事実として成立していたことは疑いない。では、そうした世界は「間違っている」のだろうか。
もちろん私達の社会は、そうした考え方を間違っていると指弾する。それが間違っているからこそ、世界の歴史は「人々の人権を保障する時代つまり近代社会」を迎えたのだというわけである。そう、私達は、ああいう社会を「間違ったものだ」という。それに対して人権を守る社会は「正しい」のである。
これらは、現代人にとって至極当たり前のことであろう。あまりにも当たり前なので、そこにある「理屈の問題」に誰も気がつかない。その問題とは、「正しさは物事を判断する際の普遍的な基準となるのか」という問題である。近代社会つまりヨーロッパは、物事の基準として「正しさ」を重視した。そして「正しさ」とは、知性の対象である。「何が正しいか」を明らかにするのは、知性だからである。したがって知性に反感を持つ人は、正しさを判定するものとして知性以外の基準(例えば感情)を持ってくるか、そもそも正しさを追求しないかのどちらかである。ヨーロッパは、「各人に独立した人権があり、それこそが法の核心である」と知性を用いて論じてきたわけだが、そうした考えが普遍的であるためには、知性を尊重するという大前提が必要なのである。裏を返せば、現代の「人権こそが最大限尊重されるべきだ」という考えを支えるのは、「知性を重視する」という姿勢なのである。
今現在、世界を眺めれば、誰も「知性」に目を向けようとはしない。それどころか現代人にとって知性は、金儲けをする手段(=成功する手段)でしかなくなっていて、そこに「欲望をもコントロールする」能力を見出す人は皆無となっている(これは哲学の終わりを意味する)。知性がもはや「正しさ」を判断する能力ではなくなった今、「人権が保障されている」というのは、飛行機雲が空に見えているのと同じである。残念ながらもはや世界に「実体としての」人権は存在しない。人権を保障するはずの知性が死滅しているからである。事実、人権が保障されない社会になっていることは、現代人の多くがすで感じ取っていることである。世界の政治に、知性はもはや働いていない。知性を称揚したヨーロッパですら、知性は金儲けの道具である。もちろん知性は、金儲けの道具ではない(道具でもありうるが)。しかし知性が、本来の能力を発揮していない、いや、発揮できなくなっているのが現代である。
哲学の世界でも、知性は、まるで働いていない。事柄を知性で判断できる人間は、世界でも数えるほどしかいない(そして彼らは無力である)。世界は、経済的効率性(端的に言えば金儲けの論理)でだけで動いている。そういう世界で注目されるのは、結局のところ、そういう仕組みに組み込み可能なものだけである。一見すると現代社会の価値観に対抗しているように見えても、知性本来の役割をアピールして、なおかつ著名になった哲学者は存在しない。既に書いた通り、多くの人が誤解しているハイデガーという人物は、反知性の哲学を語ることで、見事に現代的なのである。
世界は、急激に脱欧化している。ヨーロッパすらも脱欧化している。つまり世界に、この地球上に、知性を重視する社会はもはや存在しない。確かに、世界は、近代という時代を後にしているのである。