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Clock Going【先達の夢、親の愛】

被害者と加害者と傍観者がいて、被害が明るにみなったときに笑ったりなじったりする傍観者はいずれ加害者になるだろう。自分の中にも同じ種が蒔かれていることに気付けないでいるからだ。
しかし加害者に対して怒りを燃やしても、被害者の悲しみに立って物事を考えられる人は加害者にはなりにくい。その時点で被害者の痛みを理解できているし、加害者にならないよう自分の痛みに置き換えて自らを引き止めることができるからだ。
また、被害者の立場に立って加害者を糾弾するだけの傍観者はどちらかと言えば加害者になり得る確率が高いと言える。自分の正しさが絶対である慢心はいつの世でも井の中の蛙を意味している。

誹謗中傷はなぜ起きるのか?
日常と自分の無能さへの鬱憤晴らしにほかならない。自分のことをみないようにして相手に正義を求めておけば、一億火の玉となって相手を燃やし尽くせる。するとなぜだか自分が万能になったような、有能になったような気分になれる。相手は死んだ、相手は屈服した、と。ドラッグとかわらない。誹謗中傷は自分の人生を誤魔化して最高にハイになれる、一瞬だけ。

万能を求める人間はまず、自分が無能であることに立ち返るべきである。無能であることに立ち返れば、多くの有能さが見えてくる。
万能であるという慢心はいずれ自分を加害者に引き摺り込み、自分の地位も名誉も自分で奪うことになる。

相手の悪い部分というのは合わせ鏡だ。許せない度合いが高いほど自分の課題である。目を背けてしまえば永遠に落第であるが、それでも生きることを許容してくれるこの社会は優しい世界だと思う。
各種のセーフティネット然り、各種の補助金然りであるが、申請窓口で目立つのは申請することを当然であり、同情されるべき権利があると主張するような人間が実に多いことである。
「お世話になります、これから頑張ります」という姿勢の人間をあまり見かけない。
負けることに慣れすぎてしまうと、人はそのうち負けを誇るようになる。物事の曲解が正当化されてしまう。同情と差別という絶対的社会的正義の風潮を纏っているところがまさしく、一億火の玉の一因として誹謗中傷しているその姿そのものではないだろうか。

誹謗中傷の侮辱罪が厳罰化された。
厳罰化されたらきっと声は小さくなる。根本的な治療ではなく、対処療法であることは明らかである。
私たちは対処療法でやり過ごすのか、根治療法を試みるのかの瀬戸際に立てていることを感謝すべきである。

国家100年の計は教育にありといった、明治の人々の思いは、明治天皇をおまつりしている明治神宮に今も時代を超えて長期ビジョンの大切さを教えてくれている。
明治神宮に植えられている日本中の樹木は、陽の照り方を計算して重ならないように植樹されている。人工的な森の計画は木の成長スピードからしても100年単位の国家事業であった。100年後などどんな世の中になっているかわからないのに、100年後の今を生きる私たちを信じて明治の人々は人工的な森を作ることを決めてくれた。

相手を信じることの大きさ、愛に感動してしまった。
明治の人々は私たちのために自分の人生を半分預けてくれたのではないかとさえ思う。めざしの半分さえ私たちのために残しておいてくれたのではないかと。預貯金には利息が発生し、その利息を明治の人たちは受け取ることなく死んでいった。めざしをまるまる一本食べたらもう少し長生きができたかもしれない。
私たちは明治の人々が預けてくれたその利息で今の豊かな生活を手に入れている。利息と相続によってなんとかご飯が食べられている。

視点が違う、見据える世界が違う、夢のビジョンが違う。
小さくなった日本人が今必死に追いかけているものこそ日銭であろう。
明治よりふたつの大戦を経験し、経済大国2位にまでのぼりつめたというのに、、いやはや、日本は貧しくなったものだ。



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