【河合】下の部屋からさようならと聞こえてきた
おはようございます、河合です。
私、三月の初めに引っ越しをしたんですけれど、同じタイミングで就職もしたんですね。
最近やっと生活が安定してきたというか、引越しの段ボールもほとんど片したし料理もちょくちょくできるくらいには余裕が生まれてきたと思う。
そうなると今まで気がつかなかった問題が浮いて出てくるもので。
服はこう畳めばたくさん収納できるとか、このルートで行けば時間短縮になるとか、すぐそこに銭湯があるだとか、案外下の部屋の声は聞こえてくるだとか。
不思議じゃない?隣の部屋の音は聞こえてこないのに。確か隣の部屋は一人暮らしのサラリーマンで、下の部屋はご夫婦だったかな。話し声だと聞こえやすいのかしら。
何かのミステリー小説のトリックで、壁の防音はしっかりしているが床や天井の防音はされていないから上下の人のアリバイしかわからない…ってのがあったな。そういう賃貸なのかも。河合の白黒は下のご夫婦にかかっている。
話し声は夜眠る時に聞こえてくる事が多くて、くぐもってはいるけれど所々であればけっこう聞き取れるんですよ。
「だからここにしまってって言ったのに」
「それはお前、お前が(ホニャホニャホニャ)」
「新聞紙明日捨てるから紐で縛っとかんか」
「それ読むからこっちちょうだい」
他人の生活を盗み聞いているようで忍びないが、しかし聞こえてくるものは仕方がない。のでまぁ寝る前や寝起きや、暇だなとゴロゴロしている時やらの時間は大体下の部屋のご夫婦の会話を娯楽にしている。
それがなんだか先週ごろから、ご夫婦の会話が慌ただしくなってきた。
「準備があるんだからさ」
「それでっかいんだしこっち(ホニャホニャホニャ)持ってけって」
「入らんわそんなの」
引越しの準備だろうか。荷造り?っぽい会話な気がする。
こんな時期に引越しだなんて色々リスクは高そうな気もするけれど、そうか引越しか…なんて寂しく思っているのと同時に、次の人はどんな会話をするんだろうかとワクワクしている自分がいる事に気がついて情けなくなった。
盗聴趣味なんて最悪だ。
で、一昨日。遅めの昼ごはんを終えて一息ついたくらいの時間に、誰かが私の部屋を訪ねてきた。
「下の部屋の者ですけど」
五十代くらいのご婦人で、少し聞き覚えのある声。恐らくいつも会話を聞いている下の部屋のご夫婦の、奥さんの方だろう。くぐもって聞こえてきた声の印象よりも穏和そうな人だった。
こんな人がああいう会話をしているのかと思うと途端に申し訳なさでいっぱいになる。まぁ聞こえてくるから仕方はないんだけどさ。
「最近結構バタバタしてません?ちょっと響くというか…」
バタバタ?むしろ生活が落ち着いてきてやっと腰を落ち着けられるようになったくらいなのに。足音一つそんなに響くんだろうか、ならメチャクチャ忍足で歩かないといけないな。
自分としては静かに歩いていると言うのを伝えると、
「じゃあここの、隣の部屋とかですかね」
「お隣さんの足音も聞こえるんですか?」
「ウチここの階のお部屋さんよりも間取り広いんですよ」
階ごとに間取りが違うのか。そりゃ確かに私の部屋と隣の部屋と、両方ぶんの面積の下に住んでいるかも知れないなら隣の部屋の足音も響く気がする。
お隣さんの様子について訪ねられたが私の部屋には何も聞こえてこないので、あまり有益な事は言えないままご婦人との会話を終えた。
その日はつい夜更かししてYouTubeを見ていたので、床についたのは二時を超えた頃だった。さすがにこの時間じゃ下のご夫婦も眠っているのかとても静かで、なんだかこんなに静かな入眠は久しぶりかも知れない。
そろそろ寝る…という際どいところで急に物音がしたのを覚えている。バタン、ゴトゴトッ、ガタッ。
なんだなんだと耳をすますと、旦那さんの声だろうか。
「さようなら」
と、聞こえた…気がする。気がするというのは私がかなり寝ぼけていたからなのだが。
昨日も今日も、早めに寝ているのにご夫婦の声は聞こえてこない。あの物音、夜の間に引越し作業をしていたのだろうか。とするとあのさようならってもしかして上下の音は聞こえる造りを使って私に言ってくれたんじゃないか?それともお隣さんかしら。
そうか引越しか…、寂しいものだ。
下の部屋に次の入居者が来るまでは、静かに眠る日々になりそうです。