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海へ行こう|2000字のドラマ

「弟よ、ドライブ行こう。明日」
「は? 明日は模試なんですけど」
「じゃあ、あさってでいいや。日曜日。あんた暇でしょう」
「受験生に暇なんてあるかよ」
一樹は、机の上にうずたかく積まれた参考書の山を、手のひらでドンドンと叩いて見せつけた。「週末はこれをやり切るつもりだから」
「まぁまぁ、そんなに根詰めないでさ。海、きっと楽しいよ。いい息抜きになるよ」
姉の千明が、ニヤニヤしながら近付いてくる。買ったばかりの中古の軽自動車のキーを、くるくる指で回しながら。
いつも、こちらの都合はお構いなしだ。さも親切そうに言いながら、実のところ、ひとりで遠出するのが心細いからに決まっている。運転の練習に弟を巻き込むな。命も時間も惜しい。
「寄るな。男と行けよ。この前のあいつはどうした。医大生とかいうあの男は」
「あーあれはだめ。金持ちだったのはちょっと惜しかったけど……って、そんなこと言っていいの?」
姉が、耳打ちしてくる。「……真緒ちゃんも一緒に行くんだけど」


日曜日。
朝から秋晴れ。雲一つない。
絶好のドライブ日和……ではあったものの、一樹は気もそぞろである。
「あんたさ、車の中でくらい、単語帳見るのやめなよ。酔うよ。いろいろストレスに弱いんだから」
運転席から、バックミラー越しに姉が口を出す。
サングラスが恐いほどよく似合っている。
「……うるせぇ」
むしろ、車の中でこそ、勉強時間を確保してしかるべきだろう。受験生なのだから。とはいえ残念ながら、先ほどから単語は一つも頭に入ってこない。思考が上滑りしていく。
姉弟の小気味よい会話を、隣で真緒が、くすくすと上機嫌に笑っているからだ。
千明の2つ下、一樹の2つ上。かつて家が隣同士だった幼なじみだが、小学生のときに引っ越している。別れの朝、盛大に泣きじゃくった一樹のエピソードは、今も語り草である。引っ越してからも、細々とではあるが、家族ぐるみの付き合いが続いている。
ワンピースに、薄化粧。パチンと目が合った真緒が微笑む。一樹は思わず、窓の外に視線を逸らした。姉の口車に乗せられたのは癪だが、この状況は、たしかに歓迎すべきである。
「2人とも、全然変わらなくて安心する」
「少しは変わってほしいんだけどね」
「……うるせぇ」
余計なことを言うな。


海には、1時間ほどで着いた。
いい日和なのに、人影はまばらだった。
駐車場に車を停め、3人で海岸線をとぼとぼ歩いていたが、海風にあてられた姉が突然「我慢できない」と言って、海に向かって走り出す。
途中で靴下と靴を放り投げ、ジーパンの裾をたくし上げ、じゃぶじゃぶと水に突進した。ふいに大きな波が襲い、太もも半ばまで濡らした姉が、こちらを振り向いておどけたポーズをして見せた。
その様子を見ていた真緒が、大笑いしながら手を振る。
一樹はといえば、水もしたたる姉など知ったことではないので、ワンピースに麦わら帽子を合わせた真緒に、ちらちら視線を送っては頬を染めていた。


「どうですか、大学。3年生……ですよね」
日陰のベンチを見つけ、真緒と腰掛ける。姉は相変わらず水と戯れている。
「楽しいよ、忙しくて」
楽しいと忙しいの組み合わせがピンとこず、一樹はあいまいにうなずいた。
「やっとやりたい勉強が出来てるかなって感じ。今までのが嫌いだったってわけじゃないけどね」
「そろそろ就活じゃないんですか」
「それは言わないで」
真緒が苦笑しながら続ける。「どこまで行っても道を選んで選んで……選び続けないといけないのが、ちょっとしんどいと思うときもあるけどね。せっかく自分のしたい勉強を始められたのに、結局、また選ばないといけない。勉強を生かすか、それとも関係ない道に進むか。一樹くんは、どうするの?」
ふいに問いを投げかけられる。
どうする? どうしたらいいのだろう。
懸命に勉強しても、志望に届く手ごたえを感じられなかった。現役のときこそ、無理を言って挑戦させてもらったが、当然うまくいくわけもなく、いまや一介の浪人生。しっかり頑張ればまだまだ結果はついてくる。そんな都合のいいアドバイスに、これ以上耳を傾けていていいのだろうか。
「憧れてる大学に行きたいのは分かるけど、最近ちょっと疲れてるみたいだからって、千明ちゃんが」
姉……
あの野性味あふれる姉も、たまには有意義なことを言う。
本番まで数ヶ月。暗闇の中を、ずっと手探りで進むには長すぎる。
ときにすべてを放り出して、こんなふうに、海を眺める日があってもいい。
「……はい、頑張ります」
「頑張ったらダメでしょ。いや、頑張るのはいいけど、頑張りすぎちゃダメ」
すっと、真緒の手が、一樹の頭に伸びる。
ぽんぽんと2度、昔みたいに、やさしく触れて――
「ねぇ、ていうかなんで敬語? おかしくない?」
「いや、これは、別に」
「別に? なに」
寄るな。近い。「何でもないです……何でもねぇよ」
よろしい、と真緒がうなずいた直後、姉がびしょ濡れの体を引きずって再登場した。もはや海の化身のようになっている。
「シャワーどこ」
「もー千明ちゃん、ダメだよ。シャワー? あ、あっちじゃない? あ、タオルも。車の中? 取ってくる。鍵ちょうだい」
駆けていく真緒の背中を見ながら、姉がぽつりとつぶやく。
「進展はあったかい、さくらんボーイ」
誰がさくらんボーイじゃ。