向日葵と鳳仙花。
※本記事は、ゲーム「プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク」におけるイベント『荊棘の道は何処へ』のネタバレを含んでおります。
また、「25時、ナイトコードで。」の他イベントのネタバレも少々含まれます。ご了承ください。
生まれた罰を終わらすように。
公式Twitterのイベント予告発表時点で、
界隈を大きく騒がせていた本イベント「荊棘の道は何処へ」。
理由は二つ。
なきそさんの書き下ろし曲が収録されること。
バナー画像の衝撃。
救いがない。絶望。恐怖。不安定。
そんな曲を書き上げるなきそさん。
本ユニット「25時、ナイトコードで。」への書き下ろしはイメージとしてぴったりで、
故に絶望してしまう。
果たしてどのようなストーリーが待ち受けているのか。
ただでさえそのようなフラグが立っており、
不安だったプレイヤーに追い打ちをかける形となったバナー画像。
絶望めいた顔をする本ストーリー主人公「暁山瑞希」の姿に、
呆気にとられたプレイヤーも少なくない。
私だってそのうちの一人である。
以前のイベント「ボクのあしあと キミのゆきさき」で、
瑞希は自身の問題についてこう話していた。
瑞希の感じるもどかしさは、今を生きる若者にも通ずる話。
大切な人達に、自分のことを言えないでいること。
言わなければ、このままでいられる。
可能ならば、言わずにこのままの関係でいたいけど、
それもそれで大切な人達に嘘をついている感覚に陥って、
どっちつかずの状態で苦しんでいる瑞希。
吐露しようとすればするほど、苦しくなって。
それでいて抱えたままにしたとしても、辛くて。
うっすらと、私も共感していた。
本当にうっすらと。
でも、その共感が本イベントで色を増した。
私が瑞希のような過去を送ってきたなんてことはない。
でもそこには、共感と絶望があった。
繊細と自責。きっと私は、自分の身を滅ぼしながらこの後の文章を書くことになる。
ストーリー概要は敢えて書かない。真相は自らの目で確かめてほしい。
また、私がここから書く内容は考察でもなんでもない。
本ストーリーから私が感じたこと、考えたことの列挙、羅列である。
「なんでこんなことも他人に相談できないの?」と、
少なからずそう思っている人はきっと多い。
自身がその立場にいないが故に、その立場でしか味わえない苦しさがわからない。
それは仕方のないことだけれど、
抱えている本人にしかわからない深刻さに、ずけずけと踏み荒らしてしまう我々もまた、加害者である。
人間は、他人のことを完璧に視ることはできない。
その人と全く同じ人生を歩まないと、完璧に視たとは言えない。
私も誰かの相談に乗っている時、「その気持ちわかる」とよく言ってしまうが、
言っておいてすごく浅はかだなと思ってしまう。
それはきっと「分かった気になっている」だけで、
完全な理解なんて絶対にできていないし、
そのような状態に陥った時の私の感情を当てはめてしまっているにすぎない。
いくら似たような環境を生きていたとしても、「≒」止まり。
そうであるならば無論、"普通"を生きてきた人に、"イレギュラー"は視れない。
いくら"普通"を生きてきた人が"イレギュラー"を視る努力をしたとしても、
不可能に近い事象だと思う。仕方のないこと。
瑞希はきっと、自分のことが好き。
表ではポジティブかつ元気に振る舞っているし、
かわいい自分がきっと好き。
でも、それはこの世界では普通ではなかった。
二次元だから、うまい描かれ方をされていて、
「暁山瑞希」という存在だけを切り取ると「瑞希は悪くない」「瑞希は普通だよ」なんて言って囲む人が多い。
でもそれは、結局「瑞希は悪くない」「瑞希は普通だよ」なのであって、
もしそういうことを言っていたとしても、
仮に現実で同じような人を見かけた時、悪意がなくとも二度見してしまったり凝視してしまったりする人はきっと少なくはない。
だって「瑞希は悪くない」から。「私はそう思う」でしょ?
そのたった一つの助詞が、たった一文字が、"異質"の認定になる。
でもそれは仕方ない。自分の中の常識を覆すのはそう簡単ではない。
無意識にそういう発言をしてしまうことは、きっと誰にだってある。
知らず知らずのうちに、きっと私もしてしまっている。
そんな発言をしておいて、苦しんでいる人に寄り添っているような立ち回りをしている私が心底嫌になったりもするわけで。
言葉は刃。
他意のない言葉が、どれだけ相手を傷つけ、苦しめ、人生単位で壊してしまうか。
きっとそういう気持ちを味わったことがある人にしかわからない。
人の心なんてそう簡単にわかりやしない。至極全うである。
でも、そういう気持ちを味わった人ですら、
気づかぬうちに人を苦しめる言葉を発していることが多々ある。
でもその人は、人を苦しめる言葉に囲まれて育ってきてしまった可能性もある。
そういう環境で育つと、人の褒め方もわからなくなる。気の毒だと思ってしまう。
男子生徒Aは、まぎれもなくありふれた存在だし、つまるところ皆であり、貴方であり、私である。
すごく攻撃的な発言かもしれないけれど、私はそう思う。
私の大学の友人が、夏休み明けに突然ピアスを沢山開けてきていた。
皆驚いていた。
咄嗟に私も、「私はめちゃくちゃいいと思う」って言ってしまった気がする。
暫くして、その友人はピアスをほとんどつけてこなくなった。
友人なりの何かがあってこそなのだろうし、考えすぎと言われかねないけれど、
私はそれをすごく悔やんだ。私が加害者になってしまった。
そう思わざるを得なかった。
そういう意味で言うと、
本ストーリーにおいて一番苦しいのは瑞希より絵名なのではないかと私は思う。
今まで自分が良かれと思ってしてきたこと。
瑞希に寄り添って生きてこれていたと思っていた自分を本ストーリー最終盤にして完全に打ち砕かれたわけなのだから。
きっと絵名は、他人の苦しみを120%背負う人だから、
その気持ちを背負った状態で、瑞希に打ち砕かれてしまって。
身動きすら取れないのではないかと思う。
今後どうやって瑞希と関わればいいのかわからないし、
どうやってこの問題に向き合っていけばいいのかわからないと思う。
そうして何もできない自分に、どんどん苦しくなってしまう。
そうなってしまうことを私はとても危惧している。
絵名と類。
頼られ方において対極に位置する2人。
果たしてどちらが正解なのか。
きっとどちらも正解ではあると思うし、
人によって頼られる側の在り方は柔軟にあるべきだと感じる。
私も有難いことに頼られる側の人間ではあるものの、
頼ってもらえる度に自分の無力さを痛感して勝手に苦しんでしまう。
今回の絵名はきっとその極致に立ってしまっている。
干渉することはその人のエゴだ。
他人のタスクを背負うどころか、他人の境界線に土足で入っていってしまっている。
今回の物語のキーワードともいえる、「配慮」。
配慮は人為的な優しさ。後天的に植え付けられた優しさに、瑞希は苦しんでいる。
配慮において一番明瞭で身近なのは恋愛だと思う。
仮に同じ社会に所属している人、例えば学校のクラスだとか職場だとかの中で、
付き合っている2人がいるとする。
きっと周りは、その2人を多く関わらせるような配慮を行う。
また、彼氏や彼女がいる人に対して、
誤解を生まない為に異性がその人に関わりにいかないなどといった配慮が行われることもある。
というより、その配慮が当たり前な社会ですらある。
その配慮がなされるのに苦しみを覚えてしまうのなら、
いっそ打ち明けない方がいいのかもしれないなんて考えてしまう。
少し私の話をする。
大前提、私は自己肯定感が低い。人間不信でもある。
誰かが褒めてくれても、素直に受け取れなくて、
常に人を疑っていて、全部お世辞だと思っていて、
私に対してネガティブな感情を皆抱いているとすら思っていて、
気を遣ってもらっていると実感すると病んでしまう。
そんな面倒な人間である。
なのにTwitterではしっかり病みツイしているし、
天邪鬼な人間でもあって。
先日、誰にも何も言わず突然大学を休んだ。
形容しがたい何かに苛まれて、とにかくメンタルがダメだった。
そのせいで体調も崩した。発熱こそなかったけどしんどくて寝込んだ。
親には休講になったと嘘をついた。そんな自分も嫌だった。
午後、一通の電話が来た。
スマホを手放さなかったのに、その電話には出れなかった。
心配してくれているのだなって、痛いほど伝わった。
だからこそ出れなかった。気を遣ってもらっていると実感すると病んでしまうから。
でもそれが悔しかった。そんな私が悔しかった。
本当は話したかったはずなのに、人を頼るだけなのに、
そこに大きな勇気が必要で、
人を信じられなくて、嘲笑されてしまうのが嫌で、
そんなこと絶対しないって相手だと分かっていても、
その優しさを私の為に用いてもらうのが嫌だった。申し訳なかった。
でもそこで頼れないこともまた申し訳なくて、悔しくて。
後日、そのことについてしっかりお叱りを受けた。
「貴方はもう少し人を頼りなさい」って言われた。
その通りだと思う。実際ところどころで頼っているのだし、
なんせその人は私とかなり似た人間で、
その人にしか共感されないからその人にしか相談できないことだって多々ある。
なのに何故あの時の私は。
ずっとずっと悔いてきて、そんな中で言われた言葉だったから、
寧ろ私は嬉しかった。
理解と共感は大きく異なる。
理解のフェーズだと、配慮が生まれる。
LGBTQだって、まだまだ配慮の現状。
話題にすらならなくなったら、共感のフェーズに入ったと言える。
それが当たり前だから。
まだまだこの世界では、「当たり前にする働き」が活発で、
それが苦しいと思う人だって多く存在する。
私だってその立場である。
だからその気持ちは多く味わってきた。
その度に、自分と相手の普通が異なっているだけで、
相手に一切の悪気がないことを悟るし、
その度に、そうやって生まれてきてしまった私を嫌ってしまう。
生まれた罰って、そういうこと。
業を背負っていかなければならない。
本noteのタイトルに取り上げている、二つの花。
向日葵と鳳仙花。
このイベントでは、心底様々な考察が飛び交って、
あれやこれや予想や仮説を立てる人間が多く存在した。
YouTubeのコメント欄にも、Twitterのタイムラインにも跋扈していた。
「運営のしたこの行動はこういう理由があったからじゃないか?」
なんていう思い込みを生んで、それを鵜呑みにする人達。
ミスリードの可能性だって大いにあるのに、
ただただそれを吞み込んでしまう人達。
その思い込みが、日常で使われてしまう度、
どれほど人を傷つけるか。
そういう意図すら運営側にはあるように見える。
自身の奥底に眠る醜い本質を浮き彫りにさせるような、そんなイベントだった。
向日葵の花言葉は、「あなただけを見ている」。
鳳仙花の花言葉は、「触れないで」。
背反な二つの花と、混ざり合う自身の心。
どれが真実で、どれが嘘か。
自分の醜さと向き合い、考えるきっかけとなった素敵なストーリーだった。