三国志の赤壁の戦い|簡単にあらすじを解説!
中国の歴史といえば、さまざまな時代背景を思い描きますが、三国志を抜きには語れないでしょう。
三国志や赤壁の戦いって聞いたことがあるけど、どんな話なのでしょう。なんとなく知っているけど、意外と知られていることは少ないですよね。
実は、赤壁の戦いが三国志の始まりと言ってもおかしくない重要な分かれ目になっているのです。
それでは、三国志の話のなかでも特に有名な「赤壁の戦い」について、大まかなあらすじを解説していきます。
あなたの知らない事実がわかってきますので、ぜひチェックしてください。
※三国志演義をもとに解説しておりますので、事実を演出した物語だということを前置きしておきます。
三国志の時代背景から赤壁の戦いへ
三国志の赤壁の戦いに至った流れはどのようなものだったのでしょう。
このあたりの時代は、漢の時代で前漢・後漢とするところの後漢末期にあたります。漢の民政が乱れ、国として荒れていく時期です。
権力をつかって独裁を図るもの、保身のために正義などは無用と考えるものなどが横行しはじめます。
なんとかしようと立ち上がる武将たちですが、結局は意見や理念の違い、または、欲望のために領土の争いが頻繁におこり、群雄割拠の時代に突入していくのです。
そんななか、力のある曹操が中国全土を支配して統一を図ろうとすることから、赤壁の戦いへとつながっていきます。
漢の時代から新しい時代へと変えようとする曹操。
それに対して、反旗をひるがえす劉備と孫権の連合軍。
漢王朝の立て直し・復活を目指そうとする劉備と、代々続く孫家が納めている土地を守ろうとする孫権が手を組んで曹操に対抗していきます。
その主となる戦場こそが赤壁となり、壮絶な戦いへと向かっていきます。
三国志の赤壁の戦いまでの経緯
中心になる人物は、曹操・劉備・孫権の3人で、どのような経緯で戦うことになったのでしょう。ここでは、三国志のなかで有名な赤壁の戦いに至るまでの流れを説明します。
・曹操軍が荊州へ
西暦208年、北から南へと曹操軍が侵攻してきたのに対して、孫権・劉備の連合軍が迎え撃つといった物語。
曹操軍が袁紹軍に勝ち(官渡の戦い)、中国の北側半分を制し、勢いのまま南下して土地の豊かな荊州(劉綜|りゅうそうが納めていた)を無条件降伏で攻めとりました。
その後、劉備軍は抵抗するが、曹操軍の圧倒的な兵力では持ちこたえられないと判断して敗走します。
・曹操軍が呉へ
荊州を制した曹操は、さらに南下を目指して呉を攻め取ろうと侵攻。これに慌てた呉の孫権は、「降伏するか決戦するか」で孫権の部下たちと議論を交わすが、意見は真っ二つに割れてしまいます。
そんな中、孫権の部下の魯粛は、劉備と同盟して曹操に対抗する考えを示します。そして、孫権は魯粛に対して、劉備の考えを知るために使いを出すのです。
・劉備軍の軍師 諸葛孔明
魯粛が劉備のもとへやってきたが、劉備は「外交のことは諸葛孔明に」と、孔明にすべてを任せます。孔明は魯粛と同じ考えで、孫劉の同盟こそが唯一の道であるとの考えを示すのです。
しかし、孫権の部下には、降伏論者がいるため、魯粛は孔明に説得して欲しいと頼みます。孔明はこの頼みを快く受け入れ、呉へ出発。
呉へ着いた孔明は、孫権の部下たちとの壮絶な舌戦を繰り広げ、知力と弁舌に優れているため、すべて打ち負かしてしまいました。
唯一の難関とも思われた孫権軍の軍師、周瑜の説得にも成功し、いよいよ曹操軍を迎え撃つ準備が整います。
戦いの舞台となるのが長江の赤壁で、河を挟んでの睨(にら)みあいがはじまるのです。
三国志の赤壁の戦いにおける兵力
三国志演義では、曹操軍80万に対し、孫権・劉備連合軍12,3万と誇張した兵力で書かれています。
正史三国志(忠実とされている?)では、曹操軍24万、孫権・劉備軍5万と記されており、どちらにせよ兵力差は4倍以上はあったと推測されますね。
このとてつもない兵力の差を、どのように乗り越えていくのでしょうか。
【曹操軍の圧倒的な軍事力】対【孫劉軍の頭脳、周瑜と諸葛孔明の戦略】が中心となるのですが・・・。
普通に考えても、この差を埋めるのは厳しい状況ですよね。
いよいよ赤壁の戦いへ
長江を挟み、両軍が対岸に陣をかまえる水上戦。
戦前の予想は、圧倒的兵力に勝る曹操軍だと考えられていたが、智謀に長けた孫権軍の軍師・周瑜と劉備軍の軍師・諸葛孔明によって、曹操は大敗してしまいます。そこには、さまざまな理由が考えられます。
・戦略
曹操が埋伏の毒(敵陣にスパイを送り込む作戦)を仕掛けてきたことから、(周瑜も孔明も気づいていた)これを利用して周瑜が逆に策を用います。
それは、黄蓋(孫権の部下)という老将軍が周瑜への不満をぶちまけて、周瑜が怒り、罰として棒たたきの刑にするといった策です。
順を追って解説すると
棒たたきの刑になった黄蓋は、さらなる不満を持つ➡曹操のスパイが黄蓋に近づく➡黄蓋が曹操に寝返りたいとスパイに話す➡スパイから曹操へ連絡が届き黄蓋の帰順を認める
いわゆる、これが苦肉の策ですね。あくまで、黄蓋は曹操に寝返ったフリをする作戦ですね。
この策が功を奏し、黄蓋が先陣を切って、曹操軍が無抵抗のまま黄蓋の攻撃を受けてしまいます。孫権軍の先制攻撃の成功となるのです。
・地の利
呉軍は普段から水上の訓練をしていて、水軍の力をもっています。それに加えて、優秀な軍師の周瑜が指揮をとれば戦力がアップするでしょう。
また、曹操軍は水上慣れしていないため、広大な長江では船酔いする兵士もいたと考えられます。船酔いとは別に、慣れない土地柄のため、疫病に苦しめられた兵士もいたとされています。
これらの原因からも、土地の優位性はあったのではないかと考えられているのです。
・天候
戦いの当初は、兵力以外にも孫権・劉備軍に不利な問題があったとされていたのが、風向きの問題です。
水上戦において大切になるのが、弓の攻撃。特に、火矢を使うと相手の船を燃やすことができ、有利だとされています。
戦い前は、北西の風が吹いていたため、不利な状況で周瑜の頭を悩ませていました。周瑜が孔明に相談すると、「では、私が逆風の東南の風を祈祷して吹かせて見せます」といい、本当に東南の風を吹かせて周瑜を驚かせます。
孔明は、この時期に東南の風(今でいう貿易風)が吹くのを知っていたために、このような強気な発言ができたとされているのですが・・。※物語としての演出ともいわれています。
結果、東南の強い風を利用した周瑜が火矢を使ったのが決め手となり、曹操軍の船を焼き尽くすことに成功しました。
こうした理由から、少数派の孫劉連合軍の勝利に終わることになるのです。
赤壁の戦い後
曹操は戦いに破れ、力を蓄えるために自分の領地に戻ることになります。大きな戦力を失ったことで、次への侵攻が叶わなくなり、自国で力を蓄えていきます。そして、220年に魏を建国。
孫権は荊州の奪還を試みるが、劉備に先を越されます。曹操を撃退した勢いで荊州の南群地区を手にいれるが、その隙の劉備軍に他の地区を取られてしまいます。222年に呉を建国。
劉備は荊州・益州の攻略に成功します。孫権が他の地区を攻めている間に荊州と益州を占領します。豊かで広大な地盤づくりを足がかりとして、蜀へ侵攻して制圧します。221年に蜀を建国。
三国の建国により、バランスが保たれるようになりました。魏・呉・蜀の三国が争う三国時代の幕開けとなっていくのです。
まとめ
今回は、三国志の赤壁の戦いについてのあらすじを紹介しました。曹操軍と孫権・劉備軍の圧倒的な兵力の差がありながら、よく勝てたなと感じています。
この勝敗の差がきっかけとなり、今後に影響を及ぼし、三国志の歴史が生まれたと考えるとすごい出来事です。
もし、曹操軍が勝っていたなら?どうなっていたのでしょう。三国志の歴史が大きく変わっていたのかもしれませんね。
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