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哺乳類
昔から、猫が好きだった。
好きになった理由なんてわからないけど、物心ついたときから親に猫を飼いたいとねだってた。
誕生日プレゼントのリクエスト:猫
クリスマスプレゼントのリクエスト:猫
なんでもない日の会話:猫
だけど私たち家族はその時海外に住んでいて、今後日本に帰国する予定もあり、猫ちゃんは日本に連れていけないから飼えないよ、と何度も親に諭されていた。
その度に号泣し、何回断られてもしつこく猫を要求する私は、だいぶ粘着質なタイプだったと思う。
そんな私に親も疲弊してきたのか、何度目か数えるのも恐ろしい猫リクエストがついに承認されたのは、私が5歳かそこらの時だった。
そして来たるクリスマスイブ、明日には猫ちゃんに会える…!と期待し、眠れない(眠れた)一夜を過ごした。
まぁ、みなさんだいたい予想がついてると思うけど、クリスマスの朝枕元にいたのは猫のおもちゃだった。
撫でるとニャーと鳴く、夢猫というおもちゃ。
5歳の私、大号泣。
飼えないならクリスマスに猫あげるって言わないでよ!!!と散々文句を言ったけど、何度も断られていたのに食い下がったのは私なんだから、まぁ、私が悪いんだ。
日本に帰国してからは賃貸暮らしということもあり、結局猫は飼えずじまい。
そして26歳になった今、十分な収入もあり、猫が飼える環境にありながらも、私はなぜか猫と一緒に暮らしていない。
ペットショップに行ったり、保護猫カフェに行ったり色々行動は起こしてはいるつもりだが、
大人になるにつれて"命"の重さにしりごみしてしまっている。
猫をかわいがるだけでなく、お世話の方法や猫を飼うことで将来起こる生活の変化などを一通り学んだ結果、
現在はよくとも、未来の自分には確実性を見出せない、という判断をしたためである。
命の重さに慄いているのは何も猫だけではなく、子どもに対しても。
26歳になると、同年代の知り合いはだんだん結婚していき、子どもを産んだお友達もチラホラ。
その度に私は、戸惑いのような、驚きのような、信じられないという半ば嫌悪感のような、そんな複数の思いが絡まって、その一つ一つがなんだったのか今やわからなくなった、巨大な感情の塊を感じる。
どうして、子どもをもつという選択ができたんだろう?
私は幼少の自分のことが苦手すぎて、思い出すのも憚られるくらいなのだ。
だから自分が誰かと子どもを作って、自分と遺伝子を半分共有している人間とその先20年ほど生活を共にするという選択が、怖くてできない。
命は重い。猫も人間も、みんな私にとっては平等に重い。
投げ出さない自信なんてない。私は我慢が人より苦手なのだから、余計に。
猫や子どもを100%幸せにできる自信もない。私は限界社畜だから、家にいない時間は寂しい思いをさせてしまうかもしれない。時間を捻出できるほど余裕のある人間でもない。気がする。
それと同時に何の疑いもなく「子ども好きだからほしい!」と無邪気(私にはそう見える)に言える同級生をみると、
不思議な生命体を見るような気持ちになる。
何も考えていないのかな?という嫌悪感や
子どもが欲しいと躊躇いなく発言できるような自己肯定感の高さみたいなものを感じ取り、嫉妬まじりで憎たらしく思えてしまうのかもしれない。
私はもう、気が狂わないと子どもが作れない呪いにかけられている。呪いをかけているが自分なのは、とっくにわかってる。
猫は大好き。人間だって人によっては大好きだ。
人間を否定しているのは、自分自身だけだ。