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大人になったなあって思う瞬間

(今週のテーマ:喫茶店)

軽快なジャズピアノが流れる店内。久しぶりに友人と話す場所としては、我ながらナイスな選択だった。

「大人になったなあって思う瞬間、ある?」

唐突に友人が、そう尋ねてきた。彼のブラックコーヒーを眺めながら、初めて喫茶店に訪れたときのことを思い出す。

とある男性が、質素なブレックファーストにホットのブラックを飲んでいる最中、ある女性と出会う。映画冒頭のワンシーンのような世界に、昔からちょっとした憧れを抱いていた。

そんな映画に出てくる喫茶店とは裏腹に、現実の喫茶店と呼ばれるようなところは、とてもじゃないけれど踏み入れ難い場所だった。

タバコの匂いも嫌いだったし、コーヒーも苦くてまったく飲めない。そんな僕と喫茶店との距離が縮まったのは、東京で働き始めてからのことだった。

とある方との打ち合わせ場所を決めたときのこと。

「あそこの駅なら〇〇の喫茶店にしましょう」

そのとき頭になかった「喫茶店」という言葉を発した自分に、すこし戸惑い驚いた。社会人たるもの、打ち合わせ場所は喫茶店だと、心のどこかで思っていたのだ。

打ち合わせの30分前に到着した喫茶店は、どこか日常からタイムスリップしたような、人間くさい、湿り気を帯びた空気が漂っていた。

重そうな扉を奥に押すと、カランカランと、ベルの音が店内に鳴り響く。「いらっしゃいませ」と品の良さそうなおじさんが奥の席へと案内してくれた。

打ち合わせのしやすい窓際のテーブル席に腰を下ろす。外の日差しが、仕切りを兼ねた観葉植物をやんわりと照らす。

隣の席のタバコの残り香が漂い、早くも身体に匂いが纏わりつく。一応禁煙の席だったが、そんなものは見せかけに過ぎない、形だけのものだった。

ほぼ時間通りに訪れたお客さんと、名刺交換という名の挨拶をかわし、まずは喫茶店のメニューを注文する。

「ブラックのアイスコーヒーで」と早々に伝えるお客さんに、「僕も同じので」と間髪入れずにつなげる。

普段はカフェラテにガムシロップひとつが定番の自分にとって、お客さんと飲むブラックコーヒーは修行のひとつでもあった。

甘いもの好きからすると、ブラックコーヒーはその対極にあるような飲み物で、とてもじゃないけど、自ら選ぶような飲み物ではなかったのだ。

ただ「ブラックを飲めなければ、映画の主人公のようにはなれない」、そんなことをぼんやりと思いながら、何食わぬ顔で口に含んだ。

商談終わりの安堵感とともに、これまた映画のワンシーンのように指先のタバコに火をつけ、景気よくタバコを吸った。もちろんエアーである。

喫茶店はどこか社会をぎゅっと凝縮したような空間で、普段日の当たることのない人間模様が垣間見えた。

そんな空間に自分がいるんだと思うと、「いま、最高に大人してるなあ」と、ふと笑みがこぼれた。

氷が溶けてすっかり薄まってしまったアイスコーヒーを、ストローでかき混ぜる。これだけはまだ、僕には早かったようだ。

————

「なんだっけ、大人になったなあって思う瞬間?あるかなあと思ったけど、やっぱなかったよ」

あい変わらずテーブルに置かれたものは、カフェラテとガムシロップだった。

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Masato|TOKIORI
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