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たくさんの奇跡の上に成り立っているかもしれない日常のことを考えた話

昔、パソコンに詳しい友人が、”パソコンがなんで正常に動くのかわからない”って言っていたことを割とずっと覚えている。パソコンに詳しいのになぜそんなことを言うのか?と当時は思ったけど、今ならなんとなくわかる気がする。

コンピュータが動いている奇跡

パソコンと言わず、コンピュータデバイスは全て何千何万という精密機器(CPUとかHDDとかっていう大まかな分類ではなくそれらのデバイスを形作っている基盤やチップやコンデンサやなんやかや)から構成されていて、そのどれもがいつかは壊れるであろうパーツたちであり、それらが全て正しく動作しないとコンピュータは成り立たない。(もちろん多少の故障があっても動くようにはできているだろうけれど、極論として。)つまり、今そのパソコンが動いているのは、そういった何千何万のデバイスが動作していることを体現している奇跡的現象であり、その一つでもおかしな動作をすると正しく動作しないかもしれない・・・と。考えるとなんでこいつちゃんと動いてるんだ・・・という気分にもなるでしょう。

コンピュータやITの世界には、可用性や稼働率という言葉があって、それは、”そのコンピュータが動作する(している )確率”を示している。例えば100時間動作していたコンピュータがあるとして、そいつがそのうち1時間だけなんらかの問題で停止したのであればそいつの稼働率は99%、という感じでざっくり計算される。昨今のサーバ(でっかいパソコン)などは稼働率は99.9%とかは当たり前、というような感じで動いてる。で、こういったコンピュータを直列で接続した場合、それらを掛け算することでシステム全体の可用性を図るのだけど、例えば99%のものをふたつ繋げたら0.99X0.99というような計算式になり、そのシステムは0.98となり、98%の稼働率、っていう計算になる。要するに合体するほど稼働率が下がるのだ。同じように、コンピュータを形づくるもっと小さなパーツ達だってそれぞれにいつかは壊れるパーツであって、何千何万というパーツから成り立っているコンピュータの稼働率を99.999%たらしめるためには、各種のパーツごとの稼働率は、ほぼ100%に近くないと成り立たない。構造がシンプルになるほど壊れにくいだろうから本当にそうなのだろうけど、そう考えるとすごいなーと思ってしまう。
何が言いたいかというと、それくらい小さな奇跡の積み重ねであなたのパソコンも私のパソコンも動いているのかもしれない、ということであります。

人間が生きている奇跡

これは、人間にも当てはまるように思う。人間、人間そのものも人間関係も、日々の営みも。

人間そのものに関していえば、これは非常にコンピュータに近いものなので、わかりやすい。健康体というのは全ての臓器や体内の仕組みが正常に動いている状態を指すと思うんだけれど、これもはっきり言って奇跡であろうと思う。心臓は24時間、全身に血を送り続けているわけだし。すごい稼働率じゃん。心臓だけじゃなくって他の臓器も、っていうか人間そのものが100%の稼働率で動いててすごすぎる。と、こういうことをあんまり深く考え始めると自分の心臓が止まってしまうんじゃないか心配になってしまうのであんまり考えないようにしよう・・・。

自分の周りの人間達のバランスも同じように当てはまると思う。
私は家族がいてサラリーマンをしていてバンドもしていて、そのどれもが今は大きな問題もなくうまくいっている。しかし、私は常に心配している。どんな物事も、誰かの何かの匙加減がひとつ間違えが大きく変化してしまうものだと思うから。例えば、今まで物騒な事件に巻き込まれたことはないけど、私が明日何かに巻き込まれて、あるいは交通事故で死ぬかもしれない。そうすると家族は路頭に迷うしバンドもどうなるかわかんないし、仕事は・・・まぁ誰か採用されるんだろうけど、とにかく私の周りのバランスは突如としてガタつくことになるでしょう。(死ぬ方としてはガタつくくらい私の存在が大きかったというのは嬉しいですけどね!)
また、私の収入で家族は暮らしているわけだけど、私がいつ会社をクビになるかもわからないわけだし、地震が来て明日にも家がぶっ壊れるかもしれないし、家がぶっ壊れなくても私の精神が何かのきっかけでぶっ壊れる可能性だってある。ジャニーズ好きの妻がジャニーズ好きすぎて引きこもって部屋から出て来なくなる可能性だってある。バンドを応援してくれている数少ない大事な人たちが明日には私たちの音楽に飽きるかもしれない。そういった出来事が起こらないで、今までやって来れてるだけ、なんだな、と思っているんです。(最後のは・・・ただの私の心配事ですね)

社会が正常に動作しいてる奇跡

私は日本に住んでいるので日本という言い方をするけど、日本に住んでいるほとんどの人が規律(法律)や道徳を守って暮らしていることも、奇跡だと思う。人間が、自分たちで、社会を平穏に過ごすために作った規律を、ほとんどの人が守っているんです。実際のところ何をやったっていいのに。もちろん社会的な責任をとる必要はあってそのデメリットが大きいからおとなしくしているんだろうけど。

例えば一番簡単に思いつく物騒な事件は殺人事件だけど、、、私の部屋にも、使い方次第で人を殺めることのできる道具ってたくさんある。尖った鉛筆でも人を殺すことができるだろうし。あ、部屋に鉛筆ないな・・・ボールペンにしよう。どっちでもいいけど。そして例えば殺さないまでも致命傷を負わせたりはできる。そこら中にそういうものがある。ギターだってそうだ。でもほとんどの人はそういう使い方をもちろんしない。私はバンドマンでたまにライブをするけど照明器具がなんらかの問題で落っこちてきて直撃したらきっと死ぬだろう。それもライブハウスがしっかりとした作りになっていてスタッフがちゃんと点検してくれているから今までそういう目に遭っていないだけで、いつそうなったって全然おかしくはないのだ。

そして今度は人からモノに対する話だけど、世の中に存在するモノって、そのほとんどが人間が思いっきりぶっ叩いたりちょっと高いところから落とせば壊れてしまう。今使ってるMacBookProだってディスプレイ部分を思いっきり曲げちゃえばすぐ文鎮になる(いやそれはディスプレイが壊れるだけだから外部のディスプレイ使えば大丈夫っていう意見は認めない)。そんなものに17万円払っているのだ。なんて儚い世の中。でもみんなそんなふうに壊したりしない。これは人々が”常識的な”使い方をするであろうという、運転するときには怒られちゃう”だろう運転”の思想の元に成り立っている。

こういった細々とした常識や規律が奇跡的に、ほとんどの人は守られているから、社会の大部分が正常に動作している。・・・んじゃないかな?もちろんここでいう正常っていうのは”規律を大きくはみ出した行動をする人が少数派”ということを指しているのであって、人間が本能のままに行動することを正常とする、というような考え方に基づく方には全く理解のできない話かもしれないけどそんな予防線を張る必要はないのに何を書いてるんだ俺は。

何が言いたいのか

最近、ちょっとしたショッキングな出来事があって、もちろん大きな影響はなくいつも通りの生活をしているしその出来事もなんとはなーしにクリアされていくものなのだろう(そう願っている)けど、自分が日常を信じ切っていた側面があるかもしれないな、という反省をするきっかけになったので、なんとなく文章を殴り書いてみた。いつ、どこで、何があるかわからないんだから、懸命に、手を抜かずに生きなければ、と。

こうやって言葉にするとなんと陳腐で使い古された結論なんだろう。でもそれだけいろんな人が口にするほど大事なことなのだろうな、と思う。日常は当たり前ではない。感謝!

おわり

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