2023/10/15(日)の日記
朝の6時前まで起きていて、眠ったら次は12時だった。けど布団でウロウロしていて、ベッドから出たのは14時。
ご飯食べてお風呂入って軽く化粧して、明日が在宅になったので金曜に会社に置いていったPCを取りに天神に向けて家を出る。このときもう17時くらい?
チャリチャリで家から天神中央公園まで移動してオフィスへ。PCをリュックに収めてからさてどうしようとなった。数日前から南区にあるラーメン屋の味噌ラーメンが猛烈に食べたくて、行くか迷った。店調べたら、Uberもやってたから。けど色々考えてるうちに、悩む負荷がダルくなってきたので、もう迷うスイッチを切って歩くことに決めた。西鉄天神駅からお店の最寄りの駅までは10分もなくて、やっぱ「決めるのに悩む」んじゃなくて「決めずに行動する」が奏功するときもあるよな・・・になった。悩みすぎるのって、「なんでも考えて決められる」と思ってるからこその贅沢病みたいなものかも。実際には考えて決められることなんて少ないのかも。
西鉄普段乗らない(3,4回目な気がする)し、乗ってるだけでなんか面白かった。高宮駅は案外暗かった。大橋駅とか薬院駅みたいな大きめの駅でしか降りたことなかったからかな。
はや川は来るの2回め(のはず)なんだけど、ラーメンもだけどチャーシュー飯が美味しすぎる。調子に乗ってビールください、と言ったら瓶ビールだったからお腹パッチパチになった。でも美味しかった。シュッとくる価値、ありありあり。
おなかパンパンのまま退店して、さ〜帰ろ、バスバス・・・と近くの停留所からアプリに導かれて乗ってたら、どんどん交通量少ない道に入って行って、反対方向のやつに乗ったことを悟った。
で!!!!ここで最高なのが休日かつ、まだ時間帯も19時前後ってところ。いつも利用する路線の終着地点みたいなところが気になったので、そのまま乗ってみた。運賃もたかが知れてるし。
うきうきしてきた。このまま終点行っちゃお!となった。結局40分くらいかけて自宅の方向に向かうはずが、全く逆方向に40分くらい移動(南下)して、なんかすごく楽しかった。あんまり新しくない型のバスで、窓も開けられた。風は冷たいけど金木犀のいい匂いがたまにして、「あ〜最高〜」と思いながら地図アプリでどんどん南に移動するバスを確認していた。しかも到着予定の停留所のあたりにはでかいコメダもありそうだったので、最高すぎる、と思って「本持ってきてよかったぜ〜」となってた。
到着したら、たしかにそばに営業所あるんだけど、いわゆる市電の「終点」を想像してたから、しんとした営業所にバスが多数停まってるのを見て「バスの墓場じゃん」という感想が出た。ともあれコメダへ
国道沿いの大型飲食店って夢に出てくるセーブポイントみたいだよね。ローカルチェーンぽい大きめコーヒーショップもあったんだけど、なんかこのコメダいったわ、のほうがいつまでも覚えてそうだからコメダに行った。あと約束された居心地の良いテーブルを想像して、つい・・・
行かなかったほう
あと単純にハワイはちょっと違うんだよな。時期的にも、気持ち的にも
コレ。強すぎる。生クリームもコーヒーゼリーもアイスコーヒーもいっぺんに摂取できるヤバい飲み物。これをちびちびやりながら不安型愛着スタイルの本読んでた。あと、それを読んで欲しい人にプレゼンしつつ、話聞いてもらう、みたいなことをやりました。思考からふと浮上するとき、「なんで今こんなところにいるんだ」と思ったら面白くて、なんとなくうきうきと過ごしてしまった。こういう体験いっぱいしたい。ショートトリップ、未満の移動をいっぱいしようかな。
決めたところにしか行かない、みたいなのがタスクになるって言う自覚はあったけど、17時くらいの時点でこんなに「いい時間の使い方したな」って思える夕方〜夜になると思ってなかったから、そこの意外性というか、拡張された感が新鮮で、「楽しい!」になったのかな。そうかもな。
なんでこんなにいい気分になったのかな。根本的な理由はあるのかな。
今日のように、思いつきで移動して行き着いた場所にも、当然たくさんそこで生活を送る人がいて、自分はその文脈において完全に闖入者である。この前提をバラしてみる。
そこで暮らす人にとって、自分は頭数に入ってない
そこで暮らす人にとって、生活で必要なものはだいたいある
=> そこで暮らす人にとって、自分は生活で必要なものではない
これに癒やされている?自分と関係のない他人の生活の集合体に癒やされているのかな?
この文章書き始めたときは、「ゲームで新しい街にやってきた自分(:現実味がない)」みたいだから、それになぞらえて好ましく思ったり、ワクワクしたりするのだろうか?って思ってた。実際そのゲームの感覚をよい、と思っているし憧れている。もうちょっと現実に近づけるなら、たとえば東京では、ある程度、どの街に降りてもこういう経験があるんだろうな〜と想像できる。そして、私は「それってめっちゃいいよな〜」と思いつづけてきた。そのあこがれの体験のコア部分みたいなところに触れたので、ウキウキしたのかもしれない。と思っていたけど・・・
自分を知らないたくさんの他人が、
自分の知らない街で暮らしている
そこでは自分は完全にその人たち、その街のカウントには入らない
これに幻想に違い憧憬がある自覚がある。自分以外みんなNPCの街、みたいな(もちろん実際はそうではない)。□□□の「いつかどこかで」はそんな気分にさせてくれるから大好きなのかも。今日も、このテキストにするまでこのようには自覚してなかったけど、着いてから向こうで再生してた。
逆に、自分の想像の範疇を出ないものしかない、となんとな〜くわかってしまっているアガリ感はウッとなる。「もうどこも行き尽くして、このマップ飽きた。DLC来てくれ〜〜」みたいなね。
自分を必要としてないし、認識もしてない、他人の生活。これがあることに癒やされているし、ずっと憧れてもいるな。なんとも言えないけど、名前もつけられないけど、同じ感覚になる音楽が、ほかにもいくつかある。
古川本舗「ピアノ・レッスン」 by えるの、めありー
冨田ラボ Shipahead収録「千年紀の朝」by 吉田美奈子
ありスパ曲
大学生。マルヤの屋上イベントで流れててshazamした
高校生。ニコ動の安元洋貴さんラジオ
選曲しながら思い当たった。これらの曲聴きながら、誰か他の人の人生に焦がれていたとき、特定の誰かではなく、自分ではない誰かの人生に生まれ直したい、みたいな事を考えてた時期のこと思い出してるな。
めちゃ脱線しちゃったし2時だ。お風呂浸かって明日に備えるか・・・