面白くなくてもいい
俺の人生には面白いことが起きないのだが、それってつまり日々起こる出来事に対して何の感動もしていないということだと思う。それじゃあ面白いと思うには、何かに触れるたびに感動しなきゃならない。年齢を重ねていけば物事に対して慣れてくる。子供のように一つのおもちゃで遊び続けるなんて不可能だ。触れるたびに結果の変わるものでしか、大人は楽しめない。ポーカー、麻雀、囲碁、将棋とか、桃鉄でも、結果が変わることが大事だ。
さっきまでメジャーリーグのドジャース対メッツの無料放送があったから大谷目的に観ていた。8回表でメッツの攻撃。「6-0」でドジャースが勝っていた。「ここを抑えればドジャースの勝利目前」と実況は謳う。メッツの攻撃実らず。大谷目線に立っていたから、ホッとした。8回裏ドジャースが3点取って、ほぼ試合は決まった。ここで観るのをやめた。野球でもサッカーでも結果が決まるとそこでだいたい離脱する。お笑いなんかでもよく言われることだけど、やっぱり人間は緊張と弛緩を楽しむ生き物なんだと思う。
面白いことが起きているか、起きていないか。面白いことは起きていない。面白いと思うことが起きている。そして、その面白さとは緊張と弛緩だと思う。過去、一番楽しかった時期は児童相談所にいたときで、父の影響下から解放され、爆発的な感情の起伏とともにあった。これも緊張からの解放が火山の噴火みたいに行われたんだと思う。かつ、新しい環境への適応に苦戦せざるを得ず、そのズレの是正もプラスで変化となり、後に楽しかった記憶として残せたのかもしれない。
大人になると勝手気ままに感情を爆発させていたら孤立する。じゃあどこで抑圧した感情をぶっ放せばいいのか。それがカラオケだったり、スポーツ観戦での応援だったりするのだろう。熱中、熱狂したりするためには毎回、結果が変わらないといけない。カラオケは歌の練習にもなり、成長という変化がある。楽器もそうだ。
世の中では「結果が全て」とよく聞くけれど、結果というのは変化である。つまらないなと思うのは、変化を感じられないからだ。結果がわかっているスポーツ観戦、いくら頑張っても届きそうにない対戦相手との差、結末を知っている映画やドラマ。「これ以上の変化は見込めないな」と思うと、人は途端にやる気をなくすことが多い。
どんな作品も最後にはだいたいハッピーエンドになる。それはオチが希望になるということだ。その余韻が、自分の人生と重なって、前向きになる。オチがバッドエンドだと同じように、その余韻がある。バッドエンドは死を連想するから、望まれない。「死=つまらない」だと思う。だが、実際には自分が本当に死ぬわけではないから、「一旦死ぬ」と言い換えられる。人がつまらないと言うときは、一旦死んだときだと思う。この「一旦死ぬ」を「心が折れる」と言うような気がしている。
先ほどの野球観戦の話に戻るが、試合結果はともかく観る喜びは「9-0」になった時点で冷めた。俺が観る喜びを持ち続けることを目的にしていたなら、その時点で心が折れたと言える。実際の目的は異なり、ただ大谷を観たかった、ドジャースが勝ったほうが面白そうでいいな、そういう見方をしていたので別にうんざりして観るのをやめたんじゃなくて、ただやめた。だから当然、絶望はしていない。
この目的設定が無意識になっていると、人は心が折れやすく絶望しやすいのではないかと思う。結果が全てだと考えると完璧主義になる。毎回フルパフォーマンスで結果を出し続けなければいけない。それが長続きするのか。そんな人はいないと思う。大谷ですら力を抜いているところは抜いて、勝負どころで本気を出していると思う。
結果を点でとらえるのではなく、成長という曲線で考える。大事な場面で三振したから終わったと結果を点でとらえると幻滅しやすい。人生という線で見たときに当時よりうまくなったかが肝心になる。他人との比較も幻滅しやすい。自分よりうまい人、うまくやっている人はいくらでも見つかる。他人は比較するものではなく、参考にするものだと思う。比較すると「自分はだめだ」と気分に影響を受けたり、相手の足を引っ張ったりしてしまうこともある。参考にすれば勉強になる。たとえ競争していたとしても、戦っているのはいつも自分自身だ。
陸上の100メートル競走も記録更新だけを考えたら一人で延々とタイムアタックをしていればいいところを、あえて8人で走っているのは、見ている側が面白いのと、パフォーマンスが上がるからだろう。一位を取れるかどうかは自分以外のパフォーマンスによる。優勝が目的なら他は弱いほうがいい。自己記録を更新したいのなら、自分よりも少し速い人間たちと走るのが一番効率がいい。
婚活もそうじゃないか。目的が結婚することなら、失敗を参考にはすべきだが、失敗で落ち込むのは時間がもったいない。落ち込んでいなければ、その間は体験や周囲に学び、次に活かせる。目的は「結婚すること」なのだ。相手を好きになることが目的じゃない。もちろん好きになって結婚が理想かもしれないが、婚活の目的は「結婚相手を見つけること」だ。そして次の目的は「子供を作ること」かもしれないし、そうではないまた別の目的が生まれてくるかもしれない。
「一喜一憂しない」とプロアスリートがよく言うのは、短期的な結果に一喜一憂していれば長期的な成長は得られないぞということを言いたいのだと思う。
人生は死ぬまでが一応ワンセット。人生にはうまくいくとかうまくいかないとか俺はないと思うが、もし面白く生きたいと思うのなら、目的を「面白く生きる」に設定しないと物語が始まらない。10年20年経った後に「面白かったな」と思う日々を作るために今できることをやっていくしかない。もし面白く生きたいのなら、貯金はあるよりないほうが面白くなるかもしれない。目的を設定した瞬間やることがガラリと変わってくる。家族を養うとか、安定した生活が目的なら貯金は必要だろう。なんとなく生きていければいいのなら、なんとなく生きていけばいい。
自分の話をしているとする。聞き手が会話中にあくびをする。後で自分の話がつまらなかったのかなと思って落ち込むとする。では仮にあくびをさせることを目的にしていたら?結果は成功になる。なぜ落ち込む必要があったのか?それは本当は相手に退屈しないで笑ってほしかったことが理由になっているのかもしれない。
片思いの相手に冷たくされてヘコむのはどうしてだろう。相手と仲良くなりたいのが本望なのだとしたら、別に恋人同士になる必要はない。友達同士として仲良くすることだってできる。誤った目的設定は歩みを止める。自分と向き合ってきた人は、この目的設定が巧みだ。今の自分には何が必要なのかを見極める作業のことを、自分と向き合うというのだと思う。
できればその目的は、他人には話さないほうがいいかもしれない。話すと意識が結果のほうに向いてしまう。うまくいったか、うまくいかなったか。重要なのはそこではなく、長い目で見たときの成長だ。もちろん成長しない自由もある。自分がどうしたいか。あるのはそれだけで、そういう自分だけの作戦会議みたいな時間をたまには取ったほういいのだと思う。