引き受けの法則
仕事でブログを書いているわけではないので更新頻度が滞る。もっと読みたいと楽しみにしてくれている人もいる。趣味の延長としてやっているのですかさず期待に応えることはできないが、少しでも書きたいかもと思ったらまずは手を付けてみようと思う。
ところで巷では「引き寄せの法則」なるものがあるらしい。らしいなどというとわざとらしいが、ぶっちゃけ内容に関してはよくわかっていない。たぶん金があると思い込めば金持ちのオーラを発し、さらに金を引き寄せる的な考え方なのかもしれない。
しかしながら引き寄せと聞くたびに正直気持ち悪いなと思ってしまう。この前、鎌倉の銭洗弁財天に行ったら、隣で銭を洗いながら「お金持ちになれますように」と小銭を洗っている人がいた。いや、いた、というよりはいっぱいいるのだろう。
俺はそれを横目に、「そんな願いしてるようじゃ一生金持ちになれないだろお前なんか」と内心悪態をつく。そう、その時の感覚を引き寄せなんちゃらと聞くと思い出すのだ。要は得したいだけの人に見える。得は価値を生み出した対価として支払われるもので、金がほしいと願って入ってくるようなものだとしたら、それはお金をなめすぎである。
金だって生きているエネルギーみたいなものなのだ。生き物として考えると得したいだけの人の懐にお金様は入りたいと思わないだろう。自分のことを好いて大切にしてくれる人のところへ赴くはずである。
とはいえ俺だって得したいし損したくないしどうせ損するなら長い目で見て得をしたいと思う。だからまず自分はお金を大切にするところから始めている。ご飯に対してもそうだが、粗末に扱わないこと。人間も同じだ。自分を粗末に扱うような人のところへは行きたいとも会いたいとも思わない。
同じように物を粗末に扱う人のところへは物は行かないだろう。植物を育て始めて思ったが、雑に扱えばわりとすぐに枯れる。一生懸命育てても育て方を間違えばすぐに枯れてはしまうが、雑に扱って即枯らすのと大事に育てようとして枯らしてしまうのは大きな差がある。言葉も雑に扱えば人を傷つける。思いも同じだ。
引き受けの法則
文句ばかり言っていてもしょうがないので一応新たな法則を考えてみた。引き寄せと言葉は似ているが意味は大きく違う。その名も引き受けの法則である。
自分は父の面倒を長い間見ていた。詳細はプロフィール記事などを読んでいただきたい。父はひじょうに乱暴な人だった。「生命保険かけて首吊って死ね」と何度もツバを吐きかけながら育った。
学校へは行っていなかったので密度が濃すぎた。逃げ場所としての学校や居場所それ自体がなく、ずっと家にいたので半ば監禁状態で拷問を受け続けているような気持ちが続く。
しかし、嫌な思いをし続けたという視点だけで見れば、それはトラウマだとか過去の負債としての側面があるが、見方を変えてみれば、俺(と弟)が父の乱暴さを引き受けている間、その暴力性は他の誰にも向かなかったのである。
私たちが引き受けた。生きている間、嫌な思いをする可能性は日々高まっているように思う。付き合う人は極力選んでいるが、それでも嫌な思いをせざるを得ないときもよくある。だが、嫌な思いを引き受けた結果として今、安らかな時間を提供されている気がするのだ。
突拍子もないが、それを引き受けの法則と名付けた。もちろん一種のギャグである。生きていると唐突にひどい目に遭う。しかしそれは貯金になる。長いこと苦しめられるようなこともあるかもしれないが、いずれ負のエネルギーを引き受けた結果が表れる。
あえてポイントを挙げるならば、自暴自棄にならないことである。その引き受けたエネルギーに振り回され、また別の他の人に当ててしまえば、みすみす貯金を失うことになる。負の連鎖を自分で終わらせること。それは後々目に見えない形となってあなたを救うだろう。
ちなみに
近況報告。大きいゴミ袋20袋分の草むしりを一週間以上かけてやった。超働いた。それと達成できないときもあるが平均毎日一万歩くらい歩けている。最近はとても閉じていて、このまま一生浮上しないで死ぬのかなと思ったりして弟とマリカーをやりながら慰め合っている。髪がボサボサでホームレスみたいな風貌になっている。家が植物園になりそう。
誕生日が近付いている。32になる。ニックネームがみっつなのでついにみっつ歳を迎える。今まで誕生日に花をもらっても真顔だったが、今なら花をもらえることの嬉しさがわかる。なくても生きてはいける。お酒だったりタバコだったりもなくても死なない。が、無駄を無駄として省き続けたら、たぶんとても空虚な社会になると思う。もっと無駄な時間を過ごそう。
苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。