リアリティとはなんだろうか?
宇宙人と交信できるという人がいたとしよう。普通の人はその人を信じない。すなわち、その発言にリアルを感じることはない。
しかし、その人の脳活動を調べると、宇宙と更新しているというときは、本当に言語野のあたりが活性化されてている。そのとき、宇宙人の存在は彼(女)の中ではリアルだといえるかもしれない。なぜなら本当にその存在を知覚しているから。だけど、他の人達からみたらその存在を確認するすべはなくリアリティはないと考えるのが妥当だろう。
それでは、同じものを多数の人が共有できることは絶対なのか?眼の前に夕日が見えたとする、友達みんなで口をそろえて言う。きれいだね。そこで見た景色は紛れもないリアルのはずだ。だが、私達が持っている感覚器はひとりひとり違う。視力が悪かったり、色弱だったりする人もいて、同じものを見ているが、実際の見え方は違う。だけどそこにある景色にはリアリティがある。仮に、世界の見え方を補正し、完全に同じ見え方を可能とする装置ができたとする。そのとき、二人の見え方のリアリティは変わるのだろうか?
ゲームの中で人間が空を飛ぶとき、羽がはえるというコンテクストがあると急にリアリティが増す。ゲーム業界ではBelievabilityと呼ばれるらしいが、コンテクストやストーリーを前提として受け入れられるとき、そこに生じる現象にはリアリティが生まれる。つまり、リアリティは現象単独ではなく過去との経験との関連性から生まれるといえる。
マジックにはリアリティがあるのだろうか?例えば、お金をなにもないところから急に出すとして、そこにリアリティが感じられるのか?それが本当に現象として生じているように感じられれば、そこにリアリティを感じることはできる。しかし、マジックであることを知っている(=物理現象としてありえないと感じる)限り、僕らはそれを疑う。マジックでないと信じることができれば、リアルであることを信じるための理由を探すかもしれない。やはり、リアルさは、これまで感じてきた経験世界の延長線上にあるのかもしれない。
落語家は、言葉使いと表情や体の動き、そのたたずまいによってストーリーを語る。その語りによって、その場に存在しないはずのものや人が、ありありと眼の前に浮かぶ。まるで、落語家を通じて、別世界の現実にアクセスするかのように。リアリティを感じるのに、その存在があることは重要かもしれないが、絶対ではない。
では、生まれた瞬間に目の中にAR世界が見え、物理ルールではありえないことが、その人の世界には起こり得るとしよう。そのような人達の集まる社会においてリアリティとはなんだろうか?例えば、決して触れらなれないバーチャルな存在に対してリアリティを感じるのだろうか?今僕らが感じる現実が現実であるというリアリティとは違うのだろうか?ここでも鍵となるのはそれが現実として受け入れられるのかということだろう。拡張現実感が”技術”としてではなく”現実”として受け入れられるのか。
僕らは一体どうやって現実世界という概念をつくるのか?生まれた瞬間から感覚器を通して世界を知覚し、その中で繰り返し起こるルールを学び、そこに当てはまるものを現実として認識していく。南国で育ち一度も雪を見たことがない人が、雪国出一面の雪世界を見たとき、そこにリアリティを感じることあるのだろうか?もしそこにリアリティがあるとしたらそれを作り出すのはなんだろう?知識か?それとも雪世界という環境が感覚器に与える情報量なのか?
たった一度しかあったことのない通りすがりの誰か。現実に確かに存在するとしても、リアリティを感じられないのはなぜだろう。反対に、一度もあったことのない、存在するかどうかも知らないあの人。だけど、あの人はどうしてか記憶の中に鮮明にある。たとえ、あの人のことは別の人からたくさんの話を聞いただけの存在だとしても。記憶とリアリティ。僕らは記憶の中で現実を書き換え、つくりあげ、ときに無くす。僕らにとっての現実とはなんだろう?
僕らの感じるリアルな世界は知覚によって概念化される。概念化が行われる祭、事前知識あるいは経験を通じているはずだ。結局の所、なんの考えもなしに信じられることに対して僕らはリアリティを感じるのではないだろうか。