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櫛野展正のアウトサイド・ジャパン展 〜ヤンキー人類学から老人芸術まで〜 に行ってきました。

2019年4月12日(金)~5月19日(日)、東京ドームシティGallery AaMoで開催された、「櫛野展正のアウトサイド・ジャパン展」を鑑賞しました。

開催概要

櫛野展正のアウトサイド・ジャパン展 〜ヤンキー人類学から老人芸術まで〜
2019年4月12日(金)~5月19日(日)
東京ドームシティGallery AaMo
主催:株式会社東京ドーム


鑑賞方法

順路に従い、初めはキャプションを読まずに作品だけを鑑賞。
作品の正面に対峙して作品から受ける強い印象を心に留めておき、その位置を覚える。
最後まで鑑賞したら、再度入り口まで戻り、2回目の鑑賞をする。
最初に強い印象を抱いた作品を中心に、キャプションも参照して、自分の中の印象を深掘りする。
本作品展においては筆記用具の使用が禁止されていたため、許可されていた写真撮影を行い、スマートフォンのアプリに印象を記録した。
帰宅したあと、写真を参照しながら、作品を鑑賞した時に抱いた印象を思い出しながらスケッチを行なった。


スケッチと鑑賞メモ

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1-1 けうけげん
自身で構想した架空のお笑い芸人と、その芸人らが出演したお笑いライブやテレビ番組の出演表のようなものの制作。
それぞれの芸人にはかなり細かいキャラクターや、得意ネタなどが設定されており、作家はそれを全て記憶していて話すことができる様子。
出演表は、全ての字が段組と均等割り付けで書かれており、目測でやっているとしたらかなり集中力を要する作業だと想像される。
特定の対象に強い関心を示す特性と、緻密な空想、それを表現する手段を持っている様子。

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1−2 村上千洋子・茂樹
著名人をモチーフにした手作りのブローチの展示。
ナム・ジュン・パイク、ゲルハルト・リヒター、スティーブ・ライヒ、シンディー・シャーマンなどアーティストが可愛くディフォルメされていて、このままミュージアムショップで売られていても不思議でない完成度。
また、大きさやトーンも統一性があり、壁一面に並べて作品としても鑑賞できる。
インスタグラムでも作品を発信されている。
https://www.instagram.com/tonfly36/

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1−3 伊藤輝政
ボール紙や色紙、竹串など、図画工作で使うような材料を用いて、特装車のミニチュアを制作している。
自分だけのオートクチュールのプラモデルを作るような活動で、制作の喜びを強く感じた。
特装車のサイズ感やギミック、可動部分などに強い関心がある様子で、テクスチャーや緻密さ、精細な造形にはそれほど固執していない様子。

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1-4 伊勢田勝行
少女漫画や戦隊モノなど、憧れの世界を自分の手で実体化させることに強いこだわりを感じる。
一つ一つの描写や造形に着目すれば緻密さや精細さは感じられないが、手を動かして実際に鑑賞できるものとして実現しているところにパワーを感じる。
自主制作だというアニメーションの、キャラクターの動きが独特で、奇妙な中毒性がある。

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2−2 ラーテルさん(あなぐまハチロー)
小さな画面に、不思議な生き物の肖像のような作品や、夢で見たシーンのようなものが描かれている。
分厚く太い描写の中に、強い怒りや不安のような感情を感じる。
裸で坊主頭の母子が、涙を流しながら授乳している作品から、異様な気迫を感じる。

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2−3 なお丸
粘土のような材料で、京都の祇園祭の山車のような物体を造形している。
色彩に秩序があり、作品の前後左右に均等に発散するようなエネルギーを感じる。

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2-5 八木志基
菓子の付録についていた怪獣のシールのような、レトロでデフォルメされたオリジナルの怪獣、ロボットたちを描いている。
同じ太さのペンで陰影は描かれず輪郭線のみで描かれており、独特の力強さを感じるポーズなど、全ての作品に一貫性を感じる。
ノートに図鑑のように描いたものと、1枚の大きな紙に集合写真のようにたくさんの怪獣やロボットを並べたものがある。

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2-4 稲村米治
クワガタやカナブンなどの昆虫をたくさん組み合わせた鎧武者の立像。
五円玉で作った置物はは見たことがあるが、全て虫で作られている。
虫は土台となる材料にマチ針で止められていた。
虫の体長や幅、並べる個数で寸法を決めていた様子。

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2-8 ストレンジナイト
常に自作の仮面を被り、正体を明かさず、その出自や経歴も本当のものなのかどうかわからず、自分の存在そのものを創作物に変えて他界された。
仮面も既存のデザインを踏襲するだけでなく、独自の素材や造形感覚があり、多様で面白い。
平面作品では、透視図法に強い興味があったらしく、消失点を感じるパースのついた作品ばかりであった。

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2-9 工藤千尋
布と糸で作られた奇妙な人形。
人形たちは人間で言えば身体のどこかが欠損していたり、障害があるような造形になっており、そのような肉体を自身で生み出すことについて、どのような安堵を感じていたのか興味の惹かれるところである。
人形たちは不思議と不気味ではなく、かといって愛玩するような可愛さを備えているわけてもなく、ニュートラルな感情の対象として生活の中に溶け込みそうな不思議な感覚を持っていた。

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3-6 菅野武志
最初は自身の経営するコインランドリーに似顔絵を飾ったのがきっかけとなり、話題の人物を描いて人々の注目を集めることや、コインランドリーに集客することに主な創作の目的があるようである。
技法や題材が変化していくスピードよりも、点数が増えていくスピードが早いことからも。創作活動が作家と社会をつなぐコミュニケーションを生み出すメディアとして機能しているであろうことに意義を感じる。

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3-2 戸谷誠
ポップな配色と、仏像のような優しい表情を浮かべた女性の描写に、インドの宗教芸術が持っているようなキッチュな魅力があるが、題材や世界観を注意深く観察すると、強烈な性欲や秩序の破壊のような題材が表現されていることに気づく。

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3-3 太久磨
同じ構図、同じ配色、同じ題材を繰り返し制作している。
ポップアートのようでもあり、シュールレアリズムのようでもある、古典的な風景描写に感じられるような自然美と反対の表現に魅力を感じる。
不気味な配色であるが、計算された知的な配色であるようにも受け取れる。
影に中に濃淡があることが見て取れる。

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3-9 ガタロ
生活の中で自身の中に積み上がっていく感情や情動を、雑巾という対象に向き合い描く行為の中で整理していく、写経のような創作だと感じた。
絵によっては、その時に考えていたものを書きなぐったような文書が書かれており、雑巾を描くという行為を通じて思考を整理しているようだった。

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3-5 大竹徹祐
古いテレビ、あるいはゲーム画面のような単調な色彩と、ディフォルメされ同じフレーム中に収められた独自の世界観。
テレビに登場するニュースキャスターなどの似顔絵をノートに規則正しく描いている。
似顔絵であり、特徴を捉えていて似てはいるのだが、全て同じ様式で、自身のマナーで描かれているため、ノートの中に人間がコレクションされてしまったような違和感を感じる。

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3-10 与那覇俊
細かいマス目で区切られた中に、鮮やかなピンク、黄色などの明るい色と、青、緑、赤、オレンジなどの暗く見える色を配置して、色彩で明暗や濃淡をコントロールしているのかもしれない。
水野しずの色彩感覚に近いものを感じた。

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3-11 小林一緒
主に真俯瞰の構図で、その日食べたものなどをイラストと文字で記録している。
直線は定規で、円はコンパスで丁寧に引かれ、線の太さや感覚も正確に揃っている。
手書き文字も同じフォント、同じサイズで統一されている。
新聞折込チラシや、地域の飲食店のメニューのようなレガシーなデザイン。
誰かに情報を共有するためのマナーが整っているが、自分自身の美意識やこだわりによってのみデザインされているのであれば、デザインとは?という問題が想起される。

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3-12 新子
過集中的に、同じ間隔で引かれた同じ太さの線、同じ密度の繰り返しによる描写を、反復的に繰り返しながら描かれているであろうその過程の中に、瞑想的な活動、あるいは静寂を生み出しているような想像をした。

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4-4 国谷和成・みよ子
折り紙で作った小さなパーツを組み合わせた、大人が2人がかりで運ばなければならないような、大きな造形。
モチーフは動物や建造、乗り物など。
縮尺に正確性があり、そのままミニチュア化されたようであり、折り紙のパーツという単位の組み合わせで構成されていることから、大きさや長さが数値的に観察されていることが想像される。
反面、モチーフに書かれた文字などのトレースはアバウトであり、手書きでラフに書かれている。
強いこだわりのある部分と、それほどこだわりが無い部分が混在しているのは、美術やデザインの専門教育や専門職から出てくるものでは無い、アウトサイダーアートの特徴の1つであるように思う。

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7-4 河合良介
モノクロのヌード写真の上から、鉛筆で加筆し、あばらが浮きやせ細った造形や、骨と皮だけに変化した造形へと改変されている。
死に対して官能や甘美な憧れを抱いているように感じる。
元の写真はさほど大きいものではなく、机の上で小さな領域の中で作業できることが想像され、何か個人的な内省的活動のように見受けられるが、死の何が作者にとって官能的だったのか。あるいは、救いだったのか。

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7−4 塙興子
父である河合良介の秘密の創作を、中学2年生の時に発見し、トラウマを抱えたそう。
繊細な描写の中に性への嫌悪と、それを表現することで苦悩から解放されたいというような祈りを感じる
画面全体に破綻がなく、過集中的な制作だと想像される。
一種の倒錯が、父子の間で(形は変えながら)継承されているような感じもする。

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8-6 辻周平
強烈な蛍光ピンクと、極度にデフォルメされた女性像。海を渡った聖母マリア像が、肌の色や服飾品を土地の風俗に合わせて改変させたように、ある一つの時代の聖母像のような強い神秘性と、キッチュでポップアート的なニヒリズムを同時に感じる。
展示会会期中、ライブペインティングによる創作を行なっていたが、来場者の子どもたちにせがまれてポケモンの絵を描くなど、非常に優しい人柄が伺えて嬉しい気持ちになった。

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8-2 小林伸一
均一な線、均一な色、均一な点によって描かれた、紋様のような、植物のスケッチのような創作。動物や静物のスケッチのような作品も含まれている。
線の終点は点と同じく均一な丸になっていて、色は隣り合う色との反復性や対比性を重視しているように感じられる。
自宅の壁や窓ガラス、襖にびっしりと描かれており、生活の中に秩序と安心をもたらそうとしているのではないかと想像される。

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8-3 みやび小倉本店
成人式である種の若者たちが着飾るための派手な羽織袴を製作している。貸衣装屋の業態を取っているようで、絢爛豪華で悪趣味とも言えるグロテスクな衣装を、買い取る訳ではないというところに、業態としての成功が垣間見れる。
飾り甲冑、ギャル文化のような、キッチュでグロテスクな世界観は、日本に連綿と続くポップカルチャーであると感じる。

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9-1 長恵
様々な部材をキャンパスに、あるいは立体作品として、オリジナルキャラクター「天子」を描いている。
赤ん坊のような姿に、目が異様に大きく無表情で、ねこぢるの作品を連想させる。
反復により強烈な印象を残す。

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9-2 軸原一男
メモ帳、あるいはB5程度の小さな紙に、へのへのもへじのようなモチーフと何らかの文章が、荒いタッチで描かれている。ものすごいスピードで描いている様子が想像され、その衝動はどこから来ていたのかと想像を掻き立てる。
自分の創作を孫に受け継ぎたいという想いを語っていたとのことで、自分の人格や存在そのものを後世に残したいという想いがあったのではないかと想像され、いわゆるアウトサイダーアーティストではない作家が創作に込めるものと近似のものであろうし、人間の根源的な欲求であるのだろうと想像される。

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9-3 西本喜美子
20代の頃には競輪選手であった弟たちの真似をして女性競輪選手になってしまったり、70歳を過ぎてから教えを請うて写真加工の技術を身につけてしまうなど、強い自己効力感を感じる。
「美術教育を受けていない」という意味でのアウトサイダーアーティストなのか?と言われれば疑問であるが、こんにち一般的とされる美術教育と作家活動のキャリアパスからは外れており、そうゆう意味ではアウトサイダーだし、そもそも作家であるということがキャリアパスによって規定されるということが不自然ではないのか、というアンチテーゼも孕んでいるように思われる。

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9-6 秋月聖徳太子
大量の木製楽器や木製玩具を組み合わせて、反復性・規則性の高い奇妙なオブジェを創作している。
自然物をモチーフにした作品もあるが、「生命の誕生」や「夢」など、物理的な実態のないモチーフによる作品の狂気性が強烈で、強い印象が残った。

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10-1 松崎覚
蝋人形作家。
人肌のリアルさを出すために、素材の選定や使い方を研究するなど職人的な制作で、実用のために作られたプロダクトがアート的な意味合いを持つ例だと言える。

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11-5 酒井寅義
自分にも作れそうだから、ボケ防止のために創作を始めた、というのがいかにもアウトサイダーアートらしい。
仮面には強烈なパワーがあることは、2014年に鑑賞した「岡本太郎とアール・ブリュット −生と芸術の地平へ」展でも強く感じたところである。
展覧会のカテゴリーに「床屋」というカテゴリーがあり、閉塞空間の中で店主が独自の世界観を構築していく、という事象が各地で観察されていることに面白みを覚えた。
中でも、自作の仮面に店内が埋め尽くされた床屋は強烈で、落ち着いて散髪に身を委ねることができるのかと心配になる。

所感

アウトサイダー・アートの定義とは何か?という問題を感じた。
私の理解では、「正規の美術教育を受けていない」「既存のアートの文脈では発見されず、語られてきてもいない」というところの理解である。

アウトサイダー・アートについての原体験は、2014年に岡本太郎美術館で開催された岡本太郎とアール・ブリュット −生と芸術の地平へ」展にあり、そこではアフリカの人々が儀式のために制作した仮面や、独自の様式で発展した奇妙な棺桶などと、滋賀県の利用者が創作活動を行うことができる生活介護/就労移行支援B型施設「やまなみ工房」の作品が並列に展示されており、それぞれ別の地域で、全く別の発生をしているにも関わらず、根底に共通する原初的なパワーを感じたことを鮮明に覚えている。

それと比較すると、今回の展覧会では、そのようなアートの根源的な本質を問うような内容ではなく、どちらかというと「発見されておらず語られてもいない」アウトサイダー・アートに光を当て、広く紹介することを目的としているように感じられ、文化人類学的なアプローチであると感じた。

その点で言うと、紹介されていた70名を超える作家を発見し、リサーチし、取材し、作品の展示までこぎつけているキュレーションの凄みを感じる。

多くのアーティストがTwitterなどで自己発信するようになり、発見は容易になったと言えるかもしれないが、それでも現地を訪ね本人に趣旨を伝え、作品を預かって展示すると言うことは容易なことではないと想像される。

インターネットで何でも調べられると言うことは、自分の文脈に無い情報が入って来なくなる、と言うことと表裏一体である。実際に現場を訪れることで、本来の目的とは違ったところで、誰かからの口伝で自分の中の文脈に無い情報に辿り着く、と言うことが減っていくのだとしたら、それは便利さと引き換えの情報の断絶を意味しているように思う。

一人一人の人間は、人類が歴史の中で蓄積してきた情報ネットワークのノードという考え方ができるように思われる。

インターネットはそのネットワークと必ずしも完全に接続されているわけではなく、ある部分では独自に発展し巨大な情報の体系を作り、ある部分では補助的に働くのみ、あるいはほとんど接続されておらず、インターネットではたどり着けない地平があるということを再認識した展覧会であった。


関連リンク

櫛野展正のアウトサイド・ジャパン展
https://www.tokyo-dome.co.jp/aamo/event/kushino2019.html

櫛野展正
https://note.mu/kushiterra

Gallery AaMo(ギャラリー アーモ)
https://www.tokyo-dome.co.jp/aamo/

水野しず
https://mizuno-shizu.jimdo.com/

ねこぢる
http://nekojiru.net/

岡本太郎とアール・ブリュット −生と芸術の地平へ
http://www.taromuseum.jp/aboutmuseum/annualreport/26/1_Jigyo/1_kikaku/2_artbrut.pdf

やまなみ工房
http://a-yamanami.jp/

鑑賞note:クリムト展 ウィーンと日本 1900
https://note.mu/msfmnkns/n/nfe7277aee371


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