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寛容・不寛容 ~ 追記付 ~

 近年、不寛容な世の中になったという表現が使われるのをよく見かけるようになりました。
じゃあ、性格の悪い日本人が増えたのか? というと、そんなことはありません。
どちらかというと、今の若者世代の方が鷹揚な気がしています。

さて、寛容や不寛容という言葉の意味として、「心の広さ」と「心の狭さ」で定義づけされていることが多いようです。

でも、個人的にはちょっと違うのではないだろうか?
と思ったりしています。

人間の「寛容さ」というのは、心(性格)では決まらない。

と、考えているからです。

その人が置かれている状況(立場)や、心理状態、思想信条の縛りによって、寛容さを発揮出来たり、出来なかったりすると思うからです。

例えば、歴史上でも屈指の器量、将に将たる才と言われた劉邦。
彼の寛容さは並外れているとされていますが、実際のところはそうとは言い切れません。
例えば、戦争に負けて逃げる際、追っ手から逃れるために幼い息子と娘を馬車から突き落としています。
御者の夏侯嬰が、その都度、馬車を止めて拾い上げたもんですから、劉邦と夏侯嬰は大喧嘩。
御者がいなくなると逃げられないからという理由で、渋々夏侯嬰に従ったといいます。
他にも、皇帝になってからは、猜疑心の塊となり、次々と功臣を粛清しています。

人たらしと呼ばれた豊臣秀吉もそうです。
あれだけ気配りの名人と言われていたのに、頂点を極めたらやりたい放題。
人質にとった大名の妻たちを無理矢理手籠めにしてしまう等、傍若無人な振舞いをしています。

元々の性格が、そうだったと言えば、そう言えるかもしれませんね。

ただ、人格者と思われていた人が、犯罪を犯し、まさかあの人が!? という事例は枚挙に暇がありません。
元々の性格がそうだったとしても、通常の環境(状態)であれば、寛容にふるまうことが出来る、ということは、性格よりも環境(状態)が優位にある証左といえるのではないでしょうか?

他に、多くの人に当てはまる事例としては、

大勢の人が不寛容になりやすいのが「正義」です。

これはやってはいけないだことだろう、という「正義の怒り」が不寛容を生み出します。

例えば、去年の年末に発生した
「北新地ビル放火殺人事件」
容疑者への怒りの声が、世間を一色に染めました。

例えば、今進行している戦争に対する非難の声。

卑近な例だと、芸能人の不倫スキャンダル。

いずれも、「正義の怒り」により、バッシングが発生しました。
その怒りそのものは正当なものだと思います。
人間らしい優しさから発した被害者への共感からの加害者への怒りの発露です。

でも、結局のところは、

許せない=不寛容

という図式になるわけです。
自分の価値観で我慢ならないものに対し、人は不寛容になります。
思想信条による不寛容というものです。

日本人は、一億総中流の時期を過ごしてきたことがあり、他民族と共生する機会も少なかったことから、思想信条の不一致というものに不慣れです。
同調圧力という文化も持っています。

日本人は、多様性に対する精神的な準備がないまま、海外から留学生や労働者が流入してきて、彼らと生活や仕事を共にしているわけです。
また、ネットの普及もあり、今までは報道規制で表に出なかった社会の暗部にも触れることが可能になりました。
だから余計に、正義の怒りが発露され、正義の鉄槌や誹謗中傷の嵐が巻き起こるわけです。
とどめが、失われた30年で日本人の貧困化が進み、色々な面で『余裕』が失われてしまったことです。

経済面・精神面で余裕がなくなるという状況、心理状態になると、人は不寛容になってもおかしくはありません。

そのため、わずかな瑕疵であっても叩く。
一面の悪を見れば、他の面で良いところがあっても叩く。

そして、不寛容さが報道されるようになり、我々もそれを見聞きし、世の中が不寛容で満ち満ちたように見えるわけです。

個人的見解ですが、多分、日本人のメンタルそのものは、ほとんど変化していないと思います。
日本人を取り巻く環境が、どんどん日本人から『余裕』を奪っている。
それが些細な違いですら、のどに突き刺さった魚の骨のような嫌悪感を生み、激しいバッシング(不寛容)にいざなっているのかな、と。

斉の宰相だった管仲も

倉廩そうりんちてすなわち礼節を知り、
衣食足りてすなわ栄辱えいじょくを知る

と説いています。

世界が優しさに満ち溢れるようになるには、経済的余裕が最初に必要なのかもしれませんね。

追記

世の中への処方箋は、経済的余裕なんだろうと思います。
そして、その処方箋は、私にも効果があるだろうなと思います。
ただ。
私自身としては、それだけではなく、自分自身に対して追記しておきたいなと。

自助努力として、自浄するための方策として

  • 知ること

  • 想像力を働かせること

  • 一呼吸置くこと

を心掛けたいなと思います。

私は、猫と暮らしていますが、子供の頃は犬と暮らしていました。
初めの頃は、犬のように懐かない猫を見て、
『う~ん。私のことが嫌いなのかな? 』
と思い悩んだりしました。
でも、猫の習性を勉強し、犬との違いを知識として蓄えるようになると、猫特有の愛情表現であったり、犬とは違う触れ合い方でお互いに癒されることに気づきました。

もし、猫の習性を「知ること」が出来ていなければ、寛容さを発揮することが出来ず、深い信頼関係を構築できなかったと思います。

そして、知ることが出来れば、何をして欲しいのか?
どういう気持ちなのか?
想像力を働かせることが可能になりました。

最後に、家具でバリバリと爪とぎをしても、一呼吸、深呼吸しておいてから話しかけることで、怒鳴るのではなく、叱ることが出来るようになりました。
猫は、怒鳴ると怯えて逃げ出してしまいます。
叱ると、ん? ダメなの? という顔をします。
まあ、そうなっても、エヘヘ、これもダメ? と様子をうかがいながら、イタズラしちゃいますけどね。w

人間同士も同じかな、と。
相手のことを知るには、相手の生きてきた人生、すなわち、相手の歴史を知ることが大切かと。

子供の頃から歴史好きな私ですが、大人になって、多くの事柄が連綿と紡がれてきた時の流れにより形成されていることを痛感しています。

経済的余裕もそうですが、知ろうとする意識を持つことも、寛容さへの一歩なのかもしれません。

多少なりとも、今日よりは良い世の中になっていきますように。(祈)

しがないオッサンにサポートが頂けるとは、思ってはおりませんが、万が一、サポートして頂くようなことがあれば、研究用書籍の購入費に充当させて頂きます。