邪馬台国の謎(2)
第二話になるのですが、まだ予備知識編というか、各論の大まかな矛盾点について、ザクッとお話を進めていく感じになります。
邪馬台国の謎を追う上で、気がかりになるのが『日本書紀』の存在です。
魏志倭人伝の記述では、邪馬台国の女王が、卑弥呼。
そして、その後継となったのが台与という女性。
さらに、卑弥呼の死後、男王を立てると国が乱れ、台与を立てると治まったという記述。
南方の狗奴国によって、邪馬台国が圧迫され、窮地に陥るという記述。
『魏志倭人伝』における、この辺りの政治状況に合致する記述が、
『日本書紀』には見当たらないからです。
邪馬台国畿内説では
卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命(ヤマト・トトヒ・モモソヒメノミコト)
台与 =豊鍬入姫命(トヨスキ・イリヒメノミコト)
に比定する説が、影響力を持っているようです。
(「・」は、個人的にここで切って読むのが読みやすいかと勝手に区切っています。学術的根拠があるわけではないです。)
邪馬台国畿内説で有名なのが、京都大学出身の内藤虎次郎(湖南)氏です。
ただ、最初に唱えたのは、笠井新也氏(徳島大学教授)らしいです。
倭迹迹日百襲媛命は、第七代・孝霊天皇の娘になります。
豊鍬入姫命は、第十代・崇神天皇の娘になります。
崇神天皇の頃の大和政権は、四道将軍を派遣し、全国制覇に乗り出すといった形で、攻勢の時代でした。
イメージ的には、武田家を滅ぼした織田信長が、北陸に柴田勝家や前田利家。
中国地方に羽柴秀吉や明智光秀(光秀は本能寺に行っちゃいましたが・・・)。
中山道に滝川一益を派遣した状況に類似しています。
どう見ても、崇神天皇の頃の大和政権は、勢力が充実し、全国制覇に向けた膨張志向の政権に見えるのです。
ところが、魏志倭人伝では、邪馬台国は狗奴国に攻め込まれています。
だから、魏に援軍を求めるといった劣勢の状況にありました。
他には、『日本書紀』でも、国の乱れについては記述があります。
でもこれは似て非なるもので、神を祀り、災害よけ(天候不順による不作や疫病等)を祈念しているというもので、戦争の際に行われる怨敵調伏的な戦勝祈願ではありません。
孝霊天皇から崇神天皇の頃に、卑弥呼や台与が推戴されなければならない程、大和政権は混乱も困窮もしていません。
(もちろん、まったく困りごとが無かったという意味ではありません。
わざわざ女王を共立しなければいけないような政治環境になかったという意味です。)
畿内説を採る場合、この矛盾を解決する必要がありそうです。
邪馬台国九州説では
卑弥呼=天照大神(アマテラス・オオミカミ)
を採用する論者が多いようです。
この説を採用すると、重要になってくるのが、
卑弥呼と神武天皇の関係性 となります。
卑弥呼は、西暦200年前後に生きた人物です。
これは、魏志倭人伝の記述があり、年代を動かすことが出来ません。
その一方、神武天皇の活躍した年代は、流動的です。
【皇紀】では、紀元前660年が、神武天皇の即位年となります。
卑弥呼の活躍した時代から見て、実に861年前となりますので、相当な開きがある上に、天照(卑弥呼)➡神武という順番にならない矛盾が発生します。
ですが、神武天皇の享年が127歳。
その後の天皇も100歳を超える天皇が12名もいるということで、【皇紀】の信頼性が極めて低いと考えられています。
そのため、卑弥呼➡台与➡神武?といった継承にして、【欠史八代】にして、その後の年代がはっきりしている天皇との整合性を持たせる動きが多くなっていきます。
なかなか難しい問題ですね。
いずれにせよ、【神武天皇と皇紀の謎】が、邪馬台国論争のカギを握るものになりそうです。
天武天皇の存在
【皇紀】の謎を考える上で、最重要人物となるのが、天武天皇です。
天智天皇の弟で、持統天皇の夫。
壬申の乱の勝利者にして、681年に日本書紀編纂事業(厳密には「帝紀」と「上古の諸事」の編纂)を命じた人物になります。
天武天皇は、無類の占い好き(壬申の乱の出発日等も占いで決められた)で、暦法に関する造詣が深く、【皇紀の謎】を考える上で、考察対象として外せない人物の一人になります。
また、編纂には長い年月がかかりましたので、天武天皇の死後に皇位についた持統天皇についても見ておく必要があるだろうと思います。
持統天皇の影響
持統天皇については、天照大神に関して男性神から女性神へ変更させたのではないか? という疑惑があります。
疑惑がもたれる理由は、
孫の文武天皇への皇位継承を正当化するため、天孫降臨神話を作り出した
という可能性についての指摘です。
そして、そのお膳立てをしたのが、懐刀であった藤原不比等ではないか?
とされています。
藤原不比等の手助け
このように、日本書紀編纂当時から様々な思惑が絡んでいることもあり、
【邪馬台国の謎】は、解明が困難な謎になってしまっているのです。
どこかのタイミングで、私が今考えている邪馬台国の場所についての仮説は明らかにしていきます。
(松賢堂講義の受講生は既に聴講したので、知っておりますが・・・)
ただ、これから先も、考古学的発見や文献の発見、あるいは既知の文献に対する新解釈によって、学会の趨勢や、私の仮説が変化するかもしれません。
それもまた、この謎を考察する醍醐味と思って頂ければ幸いです。