見出し画像

邪馬台国の謎(7)

 今までは、邪馬台国論争が、どのように進んできたのか?
歴史的な流れについて、かいつまんで説明してきました。
そろそろ文献的なおはなしに入っていく時期かと思いますので、今回から震旦(今の中国)の歴史書に記載されている内容を探っていきたいと思います。

今回は、【倭人】について

中国の歴史書で【倭人(日本人?)】について、記述があるのは、
班固(西暦32年生-92年没)が編纂した正史である『漢書地理誌』と王充(西暦27年生-97年没)が編纂した『論衡』をもって嚆矢と考えてよいかと思います。

玄菟楽浪 武帝時置皆朝鮮 濊貉句麗蛮夷殷道衰 
箕氏去之朝鮮 教其民以礼儀 田蠶織作 ・・・(中略)・・・
可貴哉 仁賢之化也 然東夷天性柔順
異於三方之外 故孔子悼道不行 設浮於海 欲居九夷
有以也夫 樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云

漢書地理誌燕地条より

意味は、
玄菟郡や楽浪郡は、周武王の時代に設置された。
皆、朝鮮や濊貉、句麗といった蛮族がいた地である。
殷(商)の政道が衰えると箕子は朝鮮へ行き、礼儀や耕作を教えた。
(中略)
箕子の教化政策は、まさしく仁賢の道だった。
西戎・北狄・南蛮に比べると、東夷(東の蛮族)は、従順だからである。
だから、孔子は、震旦で道が行なわれていないのを嘆き、九夷に移り住むことすら考えたのだろう。
楽浪郡の海の中に倭人の国がある。
百か国余りに分かれ、毎年のように朝貢にやってくる。

となります。

箕子は、暴君とされた紂王の叔父とされ、優秀な政治家だったという評伝が残っています。
もっとも、周王朝が自己正当化するために、紂王を暴君に仕立て上げたプロパガンダである可能性は否定できず、中央の政治から離れた箕子を高く評価するのも、そのためかもしれません。

なお、九夷とは、

畎夷(けんい)・于夷(うい)・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷

のこととされています。

魏志東夷伝では、

扶余・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・馬韓・辰韓・弁辰・倭

と、九つの部族について記されているので、多分、彼ら自身かその前段階の部族のことなのではないかな、と思っています。

扶余(ふよ)は、北方の騎馬民族に近い集団だったと考えられています。
紀元前100年前後に東明王によって建国されたとされていますが、詳細は不明です。

高句麗(こうくり)は、有名な朱蒙(チュモン)が建国した国で、朱蒙自身は扶余出身とも、東明王と同一人物とも言われています。

東沃沮(とうよくそ)は、朝鮮半島北東部で、特に国らしい国は無かったとされています。
のちに、渤海国が建国された際、その版図の一部になった地域です。

挹婁(ゆうろう)は、粛慎(しゅくしん)の末裔とされています。
ウラジオストクや、黒竜江省ぐらいの地域に住んでいた狩猟民族とされています。

濊は、扶余と挹婁に挟まれる格好に位置していたと考えられています。
震旦文明との関りが強く、のちのちの朝鮮の習俗・慣習の多くは濊を起源としているのではないか、と推察しているところです。

馬韓・辰韓・弁辰は、いわゆる三韓(百済・新羅・任那)になっていく地域とされています。

そして、倭。
残念ながら、その居住範囲は、いまだ判然とはしておりませんが、九州北部にいたと考えられます。
彼ら倭人の国が、百か国以上あるのなら、入れ代わり立ち代わりで来れば、毎年のように、やって来てもおかしくはないかなあ、と思います。

王充(西暦27年生-97年没)が編纂した『論衡』には、

周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶

論衡 儒増篇第二六より
 

と書かれています。(他にも複数、倭に関する記述があります。)
こちらは、周王朝の時代のお話です。

意味は、
周の天下泰平の時代、
越裳という蛮族は、白雉を貢いできた。
倭人という蛮族は、鬯草を貢いできた。
白雉は、これを調理して食べた。
鬯草は、酒に漬けて服用した。
どちらも、健康長寿に役立つものだ。
となります。

他の文章には、成王の時代という記述がある箇所もあります。
もし本当なら、倭人は、紀元前1030年ぐらいには、震旦と関りを持っていたことになります。
なお、鬯草(ちょうそう)を貢いでいたとありますが、鬯草が何を表わしているのかは、分かりません。
諸説ありまして、今のところは、霊芝(キノコの一種)かウコン辺りが有力視されています。

震旦最古の地理書とされる『山海経』にも【倭】についての記述があるのですが、こちらは伝説や神話と一緒クタにされているため、どこからどこまでが事実を記述しているのか、良く分からない本とされています。
(この辺り、日本書紀や古事記と同じですね・・・)

蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕

山海経 第十二 海内北経より

この記述に拠れば、燕の属国だったという事になります。
意味は、
蓋国は、燕という大国の南に位置し、倭の北に位置する
となります。
燕は、満州付近の国でしたから、蓋国が朝鮮となり、その南に倭があるというのなら、倭は九州だったと考えても、おかしくはないです。

さて、班固王充が生きていた時代、
西暦57年に漢委奴国王が金印を授けられたという記述もあります。
(『後漢書』に記載)

建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬

安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見

後漢書東夷伝より

これは、有名過ぎる箇所なので、今回は翻訳しないでおきます。
なお、書籍に記されていることが、
基本的に事実であるとするならば、
ここまでで分かることは、

  • 倭人は東方の蛮族であった。

  • 紀元前1030年頃という古い昔から、震旦に朝貢を行なっていた。

  • 倭国は、百以上の国に分かれていた。

  • 倭国は楽浪郡(朝鮮半島)の海の向こうにある。

  • 燕の南に蓋国があり、蓋国は倭の北にある。

となり、少なくとも、九州は倭国だったと言えます。
中国四国地方や近畿地方まで含まれるかは、これらの記述では判然としません。

また、西暦280年に魚拳という人物により、『魏略』という史書が編纂されています。
その中に、

自帯方至女國万二千余里 其俗男子皆黥而文 聞其旧語 自謂太伯之後 昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也

魏略 『翰苑』巻30より

という記述があります。
翻訳については、魏志倭人伝の検討段階で行なうとして、
今回のテーマである【倭人】
の出自が記述されている重要項目があります。

自謂太伯之後

呉の太伯の子孫に当たると自称した

というのです。
これは、驚きの内容なんですよね。
(歴史通の皆さんなら御存知でしょうが・・・)

呉の太伯とは、周王朝の祖である文王の兄にあたる人物なのです。
弟の昌が優れた人物だったので、長兄の太伯と次兄の虞仲が出奔。
南方の蛮族が蟠踞する地方へ行き、そこで蛮族の王になったという伝説があります。

中国では、長男に伯、次男に仲、三男に叔、四男以降に季という字を使います。
『実力伯仲』とは、長男と次男の力の差がなく均衡しているというところから来た言葉です。
なお、文王・昌は、叔もしくは季とつくべきですが、周王朝の祖となった人物なので、弟を意味する文字がついていないのかもしれませんね。

蛇足

さて。話を戻して、呉の太伯の子孫に当たる件、これをどう考えるべきか?
非常に難しいお話です。
呉の太伯は、紀元前1000年から1200年頃の人物とされています。
また、呉は現在の上海付近に位置した国です。
そして、倭人が朝貢した論衡に出てくる周成王は、周武王の子で紀元前1030年頃の人物です。
100年程度の時間差があるとはいえ、
建国間もない国が、はるばると海を渡って、国を作ろうとするのだろうか? 
という疑問が残ります。
蛮族しかいなかった地で、呉を建国し、国として成立させるだけでも100年単位で時間はかかるでしょう。
当時の技術水準や成長速度を時間軸から考えた場合、100年という時間は、2つの国を制圧し、発展させるのには短すぎます。
だから、呉の太伯の時代以降、海を渡らなければならないほどの危機的な状況にあったか、もしくは大躍進を遂げて雄飛したか、それ以外に何らかの意味があって、海を渡る決心をさせたか? を調べる必要があります。

で。そういう事件が、一つだけあったのです。それが、

呉越戦争(紀元前473年に呉が滅亡)

です。
この長い戦争の果てに、呉は、越王勾践によって滅ぼされています。
当時から呉越地方は、船を多用する生活をしていました。
そんな呉の王族や国民が、船を使って海へ逃げ、対馬海流に流されて九州に漂着したと考えることは、理屈上、考えられます。
当時の倭人には、大した武器防具はありませんでしたし、呉から渡ってきた人々は少数であっても、周辺住民を支配下に置くぐらいは、簡単だったのではないでしょうか。

呉の太伯の子孫という説は、正しいのか? 間違っているのか?
今のところ、判然としないです。
ただ。面白いなあとは思っております。

なお、倭人が縄文人と同一なのか、弥生人と考えるべきなのか?
縄文人と弥生人の混血と考えるべきなのか?
この辺りも良く分かりません。

松賢堂講義でも色々と取り上げましたが、現存する神話や、日本語の言語構造から見て、南方(ポリネシア)を祖先とするという説に一理あります。

太平洋の海流を見ると赤道付近を流れる貿易風(偏東風)の影響もあり、ポリネシアを出発した船は、オーストラリア北方を通り過ぎ、フィリピンを経て黒潮につながります。
黒潮は対馬海流と別れて日本列島を北進していきますので、航海技術の乏しい太古の時代でも渡海の可能性があります。

ただ、この海流のスタートを日本列島から見ることも可能です。
日本から北上し、アリューシャン列島を越えて、アメリカ大陸に上陸。
そこから陸路を取り、南下していき、南米から再び海へ出る。
そして、ポリネシアからインドネシアを経て、フィリピン、台湾、南西諸島を過ぎて九州に至るという大循環です。
実際、縄文人の遺跡は古いですし、順路として考えるなら、大陸から日本列島、そして、北米から南米へというルートは、大いにあり得るだろうと思います。

こちらも、松賢堂講義で取り上げましたが、神話の類似性も考慮しています。
伊弉諾・伊邪那美の結婚神話は、中国南部の苗族の神話に酷似していますので、呉から流れてきた人々が伝えたと考えることが出来ます。
伊弉諾が黄泉の国へ行く神話は、ニュージーランドのマオリ族のヒネ・ティタマ神話と似ています。
スサノオが斬り殺したオホゲツヒメの神話は、インドネシアのハイヌウェレ神話に似ています。

このように、太平洋南部の諸島文明と中国南部の文明を合わせた神話が多く残っていることから、日本人は、

縄文人:太平洋南部の諸島とのつながりが色濃くある
弥生人:中国南部とのつながりが色濃くある

になるのかな、と思います。
基本的には、縄文人は非常に古く(1億年級)から、日本にいたと考えています。
そこから、北太平洋を還流する形で、南方諸島を経由し、再び人々が流入したか、もしくは、縄文人が源流で還流していないか。
紀元前473年の呉の滅亡以降、中国南部から大規模移民が流入し、九州で混血化。(これが弥生人? )
時代は不明ながらも、朝鮮半島についても人々は北方から南下していますので、北部九州で流入・混血化が進んだと考えられます。

残念ながら、縄文人がどこから来たのかは、古すぎるので、今後の研究成果で解き明かされるのを待つしかないと思います。

いずれにせよ、現時点の情報から考察すると、縄文人(ポリネシア含む?)+中国南部+北方騎馬民族の混血から、今の日本人が出来上がってきたのかな、と考えています。
最終的には、遺伝子情報の研究が進むことで、日本人のルールが明らかになっていくのではないか? と期待しています。

今回、長文になり過ぎてしまいましたね。反省。

いいなと思ったら応援しよう!

まっちゃん
しがないオッサンにサポートが頂けるとは、思ってはおりませんが、万が一、サポートして頂くようなことがあれば、研究用書籍の購入費に充当させて頂きます。