
デ・キリコ展、形而上絵画、印象の変化
先日、上野の東京都美術館にて、『デ・キリコ展』を見に行った。
キリコと言えば、いわゆる形而上絵画の中心人物であり、美術書などでは、現実の目に見えるものを超えて、現代における憂鬱な不安などを表現したと評されることが多い。確かに、いくつか写真で見た絵画において、元の存在を画面外に配して長く伸びる影などの描写は、そのような不安を感じさせる。
そんなわけで、どちらかというと、奇異ながらも静謐な秩序に基づく、観念的かつ理知的な絵画を観ることになるだろう。そんなある種の前提知識と先入観を持って臨んだのである。しかし、その前提知識や先入観は、実際の絵画を目にすることで、良くも悪くも裏切られた。
そこにあるのは静謐ではなく、画面から訴えかけてくる、何か騒音のような脈動のような、形態と色彩が迸る予感。写真からでは決してわからない絵の生命力のようなものが、確かにそこに存在しているのである。
マネキン、塔、影、端の丸まったチューインガムのような白い物体、定規などなど、繰り返されるモチーフは、画面の秩序に一応行儀よくおさまりながら、針のささやかな一突きがあればガラガラと崩れ、吐瀉物のように画面から飛び出しそうな危うさがある。
現代の不安というのは、脳の中で言葉や観念をいじくりまわす印象が強かったし、キリコの絵もいうなれば言語化を前提としたものと考えていたが、そうではない。これらはまぎれもなく「絵画」だ。人間が色彩や形態で思考できるなら、何も言語や観念に頼る必要は無い。
ちなみに、個人的に好きなのは『予言者』だが、分厚く塗られた自画像類とそこに描かれた魁偉な風貌もまた悪くない。
何というか、全体的に、きちんと、味が濃いのである。
かつて青山二郎は、「確かな眼というものはそこから新しい思考を逆に導き出し、従来の古い思考や言葉を左右する事が出来ます」と書いた。視覚が機能する人間においてまずはじめに存在するのは、思考や言葉ではなく、目、それも確かな目で見る「もの」自体であるはずだ。
キリコとその作品にまとわりつく「形而上絵画」という言葉での先入観をいったん脇において、まずは絵の具の塗られた画面を自分の目で見て、その上で己の内に湧くものをそっと掬い取る。先入観と変わる印象。そんな、「目でものを見る」という当たり前にして忘れがちな経験を、キリコの絵で思い出したのである。
(2024.8.1)
いいなと思ったら応援しよう!
