笑いと叙情と業と、潜在する狂気~『パーマネント野ばら』~
西原理恵子『パーマネント野ばら』が好きで、折に触れて読んでいる。『ぼくんち』も『できるかな』も『いけちゃんとぼく』も好きだけど、やはり『パーマネント野ばら』がよい。
地方の漁村を舞台にした、そこで生きる女性たちの話。娘を連れて出戻った主人公なおこの実家が、なおこの母が営む村唯一のパーマ屋、「野ばら」である。野ばらとなおこに加え、やはり村唯一のフィリピンパブのママである親友みっちゃんはじめ、なおこの友人知人の女性たちが抱える男への愛憎模様が、手を変え品を変え語られる。
なおこの母はとっくに離婚していて新しい愛人を作ってはいるものの、その男は、なおこの母よりはるかに年上で不細工な近所のナス農家のおばさん(おばあさん?)を気に入って同棲。そのため野ばらに寄り付かない。それで不機嫌な母親に振り回されるなおこ。
みっちゃんは、旦那が店の若いフィリピーナを口説いて浮気したことに激怒し、車で追いかけまわして轢いて重傷を負わせる。しかし、ベッドでの「さすがワシの嫁や」という旦那の拍手につい笑ってしまい、やがて正式に離婚して別居した後も、金の仕送りをするような関係を続ける。
港近くのまぐろ料理屋のひろこちゃんは、結婚して20年。店と居間の6畳間しかない家で暮らしつつ、旦那から、「靴下を出して。場所が分からん」と言われたことで何かが切れ、旦那を包丁で刺してしまうも、なおこらの証言もあって何とか揉み消し、甲斐甲斐しく旦那の入院の世話をする。
多情で酒飲みである、ジュータンパブ(?)のゆきママは60歳。あるとき、ふと会った男に恋をしてしまい、なおこやみっちゃんらから冷やかされ励まされながら男をラブホにはたきこみ関係を持つも、すぐに捨てられ、別れてしまう。「好きな男のいなくなったあとのふとんは 砂をまいたみたいだ」
他にも色々な男と女のカタチをどこか滑稽なテイストで見せつけられるが、それらは、ゆきママの母であるおばあちゃんが、自身の亭主の死に際して言った言葉に集約される。
「逃げるか死ぬかして先におらんなってもらわんと困るもんが 男じゃ」
そう。作中では、彼女たちは残り、男たちは去っていく。
そんな中異彩を放つのが、主人公なおこの恋だ。序盤から、40~50代のロマンスグレーの男と交際している描写があり、彼との、どこかほのぼのとした、それでいて幻想的な会話のシーンが繰り返される。それが終盤に急転。
「好きな人を
忘れてしまったのに
恋をしている私は
もうだいぶん
くるっているのかもしれない」
そのような男は現実に存在せず、すべてなおこの妄想であることが示唆されるのである。現実の生活のにおいて男との仲に悪戦苦闘する女たちの中で、それはあまりにも清浄であり、それでいてずしんと来る。みっちゃんやゆきママたちに比べ穏当な言動に終始していたなおこの狂気には、確かな絶望と説得力を感じてしまう。
生きるとは男と女の関係だけではない。でも、人類が長年培ってきた男と女の関係への思慕は、生きている以上、逃れることのできない業であると言っても過言ではないと思う。しかしそれは、時にあざとく、時に汚く、ときに見苦しい。
『パーマネント野ばら』は、あざとく、汚く、見苦しいとも言える中高年女性たちの男への愛憎を、笑いと叙情にくるめて面白く読ませてくれる。そして、そこに狂気の基調低音を偲ばせることで、面白さの板子一枚下が地獄であることも仄めかす、稀有なエンターテインメントだと思うのである。
(2023.9.18)