第2話 表裏
先輩は苦手だ。美人というだけで、気後れしてしまう。気さくで、勉強もできる。完璧、という言葉を人に使うのは良いことではないけれど、私の勝手な印象を一言で表すならそれだ。
「手伝ってもらってごめんね」
ゴム手袋を着けながら先輩が話しかけてきた。飼育室に入るには、白衣とゴム手袋、マスクの着用が必須のため、私も装着する。
「いえ、暇だったので大丈夫です」
皮肉を含んだつもりだったが「そう?ならよかった」と、あっけらかんと答えてくる。不思議と嫌味を感じないのだから美人は得だと思う。
準備を終えて飼育室に入ると、獣臭とアンモニア臭がマスク越しに鼻をつく。幅が3メートルほどの細長く狭い部屋の中、左右の壁際に並んだ背の高い4段のラックの上には、マウスの飼育ケージがびっしりと置かれている。
「夕方にhCG打つから、その前に掃除しておきたくて」
hCGは、マウスの卵子を通常よりも多く排卵させるために腹腔内に注射するホルモンだ。hCGを打つ48時間前に、PMSGという別のホルモンを投与しておく必要があり、間隔が開きすぎると効果が出なくなる。
hCGは通常、夕方に投与しなければならないので、その前に雑用を片付けておきたいのだろう。
「わかりました。どこから始めればいいですか?」
「ここからここまでお願い出来る?」
複数のケージを、指でくるっとさして指示される。大体15個くらいか。
ささっと終わらせて帰りたいので、早速取りかかる。空のケージにウッドチップを敷いて、掃除するケージからマウスを移す。空いたケージのウッドチップを捨て、水で洗っていく。
たまに噛みつかれそうになるから、この作業は好きじゃない。
「そういえばさ、すごいよね」
無言で作業していると、話を振られた。
「すごい? というとあれですか。俳優の事件の?」
「俳優の事件って何?」
さっき話題になった事件のことだと思ったが、違ったようだ。曖昧に話を投げられると、つい自分が直近で得た情報を当てはめて聞き返してしまう。
いや、この場合相手に共通認識を求めているのはお互い様か。
「すみません、違ったようです」
「他の子が話してたんだけど、ピアス手作りしてるんでしょ? 今着けてるのもそう?」
そっちか。隠していることでもないし、SNSのアカウントを知っている同期の子もいるので、誰かしらから聞いたのだろう。
「そうですね。趣味なんです」
「近くで見てもいい?」
そう言うと、作業の手を止めて近づいてくる。いいですよと答えると、少しかがんで右耳のピアスをのぞき込んできた。
近い。
先輩がマスクをしていてよかった。
マスクが覆っている鼻や口、輪郭は、脳が勝手に補完して美人に見えると言う。しかし、元からきれいな女性がマスクをすると、隠れているおかげで美しさが軽減されるようだ。
いつもより圧迫感がない。それでも少し後ずさりたくなるが。
「へぇ、上手だね」
「ありがとうございます」
褒められるのは嬉しいことだが、直接言われると少し恥ずかしくもある。SNS上のコメントはそんなことないのに。
先輩はピアスから目を離さずに少し距離をとりながら、何やらうんうんと頷いている。
「で、俳優の事件って何?」
話しが戻った。
「私もさっき知ったんですけど、人気の俳優?が、過去に暴行事件を起こしたことがニュースになっているみたいで」
「ありがちだね」
人気俳優が暴行事件なんてそうそう起こすことでは無いと思うが、ありがちと言われるとなぜか納得感がある。
「そうですね。そんな珍しいことでもない話題なんですが、SNSが異常に騒いでるみたいなんですよ」
「SNSの人たちが好きそうな話題だもんね」
先輩がマスクの下で苦笑したのが伝わってくる。
「先輩もSNSって見るんですか?」
「今どきSNSを使っていない人の方が少ないんじゃない?」
そうだとは思うが、なんとなく先輩がSNSというものを使うのに違和感があった。俗世から隔絶されている……は言い過ぎかもしれないが、他人の意見とか気にしない、自分は自分という勝手なイメージを持っている。
「私はSNSとか嫌いだけど」
やっぱりそうかと思いつつ、聞き返す。
「嫌いなんですか?」
「匿名で好き勝手言うのっておかしいよね。不特定多数の人に伝わるんだから、実名で責任持って発言しなよって思っちゃう」
「それはわかります」
俳優の暴行事件もそうだ。みんな好き勝手言い放題。実名で批判している人なんて一人もいなかったように思う。
「匿名であってもさ、一人の、人間の意見には違いないんだよね。それが集まると“みんなの意見”になる。誰にとっても好意的な意見であれば問題ないだろうけど、それってかなり少ないと思う。誰かにとって良いことって、他の誰かにとって悪いことが多いよ」
今の状況もそうだろう。掃除を手伝うのは先輩にとって時簡の短縮になるけれど、私にとっては時間を消費している。口には出せないけれど。
「それに、人間って好意的な意見より、否定的な意見の方が刺さる」
身に覚えがある。私の作るピアスに対して好意的な意見の方が多いけれど、実はその意見を細かくは覚えてない。対して、否定的な意見は一つずつ頭に残ってしまっている。
「もしさ、数百、数千、数万の人からの否定的な意見が個人に向いたとき、それはどうやって消化すればいいんだろうね」
「消化……ですか」
「誰かが、どこかが、時間が。それでも消化しきれなかったら最後は自分か」
数万人からの否定なんて一人で飲み込める気がしない。漠然と考えるだけで怖くなる。
数秒の間が開き「でもね」と先輩が続ける。
「実際のところ、実名でSNSをするのって難しいよね。匿名であっても投稿している写真から行動範囲を絞れるだろうし、自分の写真を上げてる人もたくさんいるよね。匿名でも管理が甘い人は個人を特定できるんじゃない?」
「やろうと思えば出来てしまいそうなのが怖いですね」
「それは私が?」
「いえ、誰でもという意味です」
誤解を与えるような言い方だったなと思い、かぶせるように否定する。
「例えば実名が義務づけられて批判的な意見が減ったとしても、誰かにとっての良いことは誰かにとっての悪いことという、同じ問題がつきまとうんじゃないかな」
容易に想像できる。結局、批判したい人はするし、それに対してかみつく人もいれば、曲解されることもあるだろう。
「誰も投稿しなくなりそうですね」
「そうだね。少なくとも今のSNSという体系はなくなるかもしれないね」
なら、なんで今のSNSというものは無くならないのだろうか。
情報の伝達が早いから?
共感を得て安心したいから?
だれかとつながっていたいから?
無言になって考えていると「話し過ぎちゃったね、急ごうか」と声をかけられた。
考えていても仕方ない。余計なことは頭から排除して、作業に戻る。
小一時間ですべて片付けたあと、先輩が少し言いづらそうに切り出してきた。
「もしよかったらさ、ピアス、今度私にも作ってくれない?」
私のピアスを見た後、うんうん頷いていたのはこれを言うか迷っていたのか。
「いいですよ」
「えっいいの? ありがとう!」
その笑顔は少しずるいな。
やっぱり、先輩は苦手だ。