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夜這いの代償は地獄の惨劇──血塗られた村の真実
「愛している」という言葉を聞くと、どこか興醒めしてしまう。
外国映画で男優が「I love you」と口にするのは自然に感じられるが、日本人俳優のセリフになると、一気に真実味が薄れてしまうように思う。これは、日本人が持つ独特の文化的背景が影響しているのかもしれない。
日本では、欧米のように抗議デモなど“腐敗した政治に対する怒り”を表す行動が少ない。
昔から感情をあまり表に出さない気質があり、直接的な表現を避ける文化が根付いている。
そのため、「愛している」といった直接的な言葉よりも、「恋」や「慕う」といった間接的な表現が多用されてきた歴史がある。
では、江戸時代において、人々はどのように恋愛を表現し、好きな人にアプローチしていたのだろうか?
「恋愛」という概念が全くなかったわけではないが、結婚に恋愛が結びつくことはほとんどなかった。
当時の結婚は、家同士の結びつきを重視し、社会的地位や家の存続を目的として行われていた。現代のように恋愛が結婚の前提となることは稀だったのだ。
しかし、だからといって恋愛自体が存在しなかったわけではない。
人々は結婚とは別に、心を寄せる相手への思いを、歌や手紙、行動でそっと表現していた。
江戸時代の恋愛は、現代の恋愛とは異なる形をとりつつも、当時の社会に確かに息づいていたのである。
江戸時代の告白は主に恋文によるものだった。
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驚くべきことに、恋文の書き方を指南する参考書まで販売されていたという。『都風俗恋のしらべ』『恋の手本』『当世恋之部類』『情筆秘伝』などは現在にまで名を残す書物も存在している。
しかし、全てが周到に準備された前段があったわけでもなく、映えある特攻タイプもあったようだ。
それは夜這いである。
現在では考えられないが、かつてはいきなり家に侵入するケースもあったという。しかし、大半の場合、昼間に好意を伝えるアプローチが行われ、家族の暗黙の了承を得た上で夜這いが行われることが多かったようだ。
また、夜這いにはいくつかの暗黙のルールも存在していた。例えば、女性が自室の灯りを消す、戸を少しだけ開けておくといった行動は、受け入れの意志を示すサインとされていた。一方で、戸を完全に閉ざしている場合や家族が近くにいる場合は、「今夜はお断り」という意思表示と解釈されたという。
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しかし、夜這いが既婚女性を対象とする場合、状況は一変する。特に武士階級では、不倫は家の不名誉とされ、発覚すれば即座に切腹を命じられるほどの重罪だった。町人や農民の場合でも、不倫妻の夫が相手を発見した際には、報復の殺害が黙認されることもあったという。
このような日本独特の奇習である夜這いは、実は昭和初期まで残っていた。そして、一部では血が凍るような残虐な事件へと発展したケースも記録されている。
怒涛の銃声に狂乱した悲鳴が吹き飛ぶ大虐殺事件の真相
1938年5月21日、岡山県の山間部になる小さな村。
暗雲たなびく夜空の隙間から星が輝き、深夜の村は静寂に包まれていた。村人たちは鈴虫の耳心地の良い音色誘われるように、深い眠りに落ちていた。しかしその静寂は、突如響き渡った銃声によって粉々に打ち砕かれた。闇夜に飛び散る血しぶき、肉片――ここに、壮絶な惨劇の幕が切って落とされた。
時代に置き去りにされた辺境の村
いにしえの奇習が色濃く残る人里離れた辺境の村で、日本中を震撼させる大虐殺事件が発生した。
昭和の犯罪史に刻まれるこの大量惨殺事件の犯人、都井睦雄は、1917年3月5日、岡山県の山間部にある小さな村で生まれた。
都井睦雄は2歳で父を、3歳で母を肺結核で亡くし、祖母と暮らすこととなった。
しかし、不幸中の幸いにも、都井家はその村で代々続く地主であり、旧家の名残から農業収入や地代といった不労所得を得ており、比較的裕福な暮らしを送っていたという。
このような経済的な背景もあってか、都井睦雄は学業に身が入らず、次第に同年代の人々とも関わりを持たなくなり、現代でいうニート状態に陥っていった。
さらに1937年に受けた徴兵検査で肺結核が発覚し、これが彼の将来に暗い影を落とす決定的な出来事となった。
当時の日本社会では国に貢献できない男子は差別の対象にされた。
その上、結核という診断結果がさらなる追い打ちをかけた。
村人たちは、当時「不治の病」と恐れられていた結核を患った都井睦雄に対し、露骨に距離を置くようになったのだ。
差別的な冷たい視線が都井睦雄の背中に突き刺さり、村全体が彼を疎外する空気に包まれていた。
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そんな状況に晒された都井睦雄の自尊心は崩壊し、やがて自身を嘲笑う周囲に対して深い恨みを抱くようになっていた。
1938年の事件発生2か月前、ひとつの騒動が村を揺るがした。
都井睦雄の祖母が孫である睦雄に毒殺されかけたとして警察へ駆け込んだのだ。
「睦雄が私の味噌汁に怪しい薬を混ぜるのを見た」との訴える祖母の言葉は村人たちに衝撃を与えた。警察が家宅捜索を行うと、彼の自宅からは彼が収集していた多数の武器が押収され、事態はさらに不穏さを増していった。
ところが実際は、都井睦雄は祖母の体調を気遣い、自分が常用している胃腸薬を味噌汁に混ぜて飲ませようとしただけだった。
しかしそのことを周囲の村人たちは知らない。
村人たちの間では「肉親の祖母を毒殺しようとした」という噂が瞬く間に広がり、睦雄は非難と軽蔑の視線を一身に浴びることになった。
孤立した山奥の村で、睦雄はさらに仄暗い隅へと追いやられていく。
その孤独と絶望の中で、村人たちへの憎悪は次第に膨れ上がり、やがておぞましい殺意へと変貌するのに時間はかからなかった。
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悪魔が来たりて銃が火を吹く
1938年5月21日深夜1時40分ごろ、異様な風貌と鬼のような形相の睦雄が現れる。
それは詰襟の学生服に軍用のゲートルと地下足袋を身に着け、頭にははちまきを締め、小型懐中電灯を両側に1本ずつ結わえつけた。
さらに首からは自転車用のナショナルランプを提げ、腰には日本刀一振りと短刀を二振り、 手には改造した9連発ブローニング猟銃を持っていたのだ。
まずその殺気に染まった目は自身を毒殺犯だと言いふらした祖母に向けられた。
睦雄は就寝中の祖母の首めがけて斧を振り下ろす。
祖母は首を刎ねられ即死。
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そして血飛沫を浴びた睦雄は隣の家に侵入。寝ている妻の股に散弾銃を突きつけ、ぶっ放して即死。爆音に驚愕するその子供と夫も散弾銃の餌食となり吹き飛ばされる。
続けざまに2軒目に侵入し、妻とその娘2名を殺害。
3軒目に突入。夫婦を殺害し、畑仕事を手伝いに来ていたその親戚にも発砲して重傷を負わせる。
4軒目は、夫婦と長男、5女、6女の4名が絶命。
娘2人の胸には大きな散弾銃の穴が空いた身の毛もよだつ、恐ろしげな死に様だったと伝わっている。
4女が5軒目に逃げ込んだので返り血と肉片まみれの睦雄も雄叫びをあげながら突撃。
その家の旦那を至近距離から射殺。
4軒目の4女は床下に逃げ込み、負傷だけですんだ。
6軒目、 その家の主人とその母親を殺害。
7軒目、その家の妻と2人の娘を殺害。
ご主人は睦雄の悪口を言わなかったということで難を逃れた。
8軒目、その家のご主人は隣町まで逃走し、第一通報者となる。
しかし彼の妹、母親は日本刀で串刺しにされて殺害された。
9軒目、その家の妻と両親、子供を殺害。10軒目は何が起きているか雨戸をあけて外を覗いていた妻を射殺。
11軒目、夫婦を殺害。犯行時間は1時間半で死者30名、重傷者多数という犯罪史上類のない大量虐殺事件となった。
この犠牲者をみてみると、睦雄が女性に深く恨みを持っていた事がよくわかる。
蜘蛛の巣のように絡み合う男女の欲情のもつれか?
都井睦雄がこれほどまでに女性に対して深い憎悪を抱いた理由は、夜這いに起因しているとも言われている。睦雄は複数の既婚女性と関係があったことが明らかになっている。
明治維新後、明治政府は近代化を目指す中で、民度改革の一環として夜這いを禁止した。これにより都市部では風俗街の発展も手伝って、夜這いのような風習は次第に姿を消していった。しかし、時代の流れから取り残された小さな村々では、昭和初期になってもなお、こうした悪習が根強く残っていた。
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睦雄はある程度生活に困らないだけの資産を持っており、その経済的余裕から、彼を受け入れた女性も少なくなかったと推測される。しかし、結核が判明した途端、それまで親密だった女性たちが一斉に彼から離れていった。この裏事情が、睦雄にさらなる絶望感と憎悪を植え付けたのは間違いないだろう。
実際、睦雄と関係があったとされる女性たちは、彼の犯行において特に残忍な手口で命を奪われている。その凄惨な行為の裏には、彼が抱いていた深い恨みが読み取れる。
彼の遺書には二人の女性と一人の女たらしが登場する。
2人の女性のうちのひとりが寺元ゆり子。
彼女は事件の4か月前、都井睦雄の夜這いにあったようだ。
でも当時彼女は別の男性と結婚していた。この夜這いが原因で離婚に至ったことからも未遂でなかったことが伺える。
でも彼女はすぐに別の男性と結婚して村を離れていった。
そのため都井睦雄の片思いだったとも言われているが、じつは、都井睦雄と寺元ゆり子は 婚約してた。
しかし、都井睦雄の結核が発覚したことで婚約は解消され、彼女は早々に別の男性と結婚して村を去ったのだ。
事件発生の数日前から村へ里帰りしていた。
そこで、未練があった都井睦雄は事件の少し前夜這いをしかけたということだ。
呪わしい偶然が産んだ惨劇
もう一人の女性は、西山良子で彼女も都井睦雄と関係していた。しかし、他家へ嫁いだことへ恨みを抱いていた。彼女はこの事件で殺害された。
遺書にははっきり、「寺元ゆり子を逃がした」と書いているので最初から2人とも殺害する予定だった。
この2人の女性は偶然事件当初、里帰りしていた。この悪魔のイタズラのような偶然が多くの血を流した呪わしい事件に発展してしまったのだ。
また多くの女性被害者を出したのは寺元倉一というお金持ちのイケメンへの嫉妬ではないかとも指摘されている。
都井睦雄の遺書では「あいつは金があるからと言って未亡人でたつものばかりねらってこの村でも彼とかんけいせぬと言うものはほとんどいない」と書いている。 しかし、肝心のその女たらしには逃げられて殺害には至っていない。
八つ当たりというか、お金持ちのイケメンに尻尾振った女性たちに猟銃と散弾銃で大きな風穴をあけられる結果となった。
2011年頃まで生存が確認されていた寺元ゆり子のインタビューでは「都井睦雄は結核で村全体から避けられていた。彼が道を通っているとみんな、 その道を避けていた」と、また「いろんな村人から都井睦雄は結核だから避けろと忠告された」と証言している。
事件後、都井睦雄は猟銃自殺した。
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寺元ゆり子は、当時この大虐殺事件の原因を作った張本人と言われ、針山に座するが如く、つらい時間を過ごしたようだ。
また彼女は事件から半年後に女の子を出産し、都井睦雄の子ではないかと噂されていたとか・・・
こんな小説のような事件が本当にあった。
この都井睦雄の大虐殺事件こそ、あの横溝正史の名作【八つ墓村】のモデルとなった事件だったのだ。
このような壮絶な惨劇が、実際に日本の小さな村で起こったという事実は、あまりにも衝撃的。愛憎、嫉妬、絶望、そして孤独――これらの感情が絡み合い、村という閉ざされた環境で極限にまで膨らんだ結果、血塗られた惨劇へと繋がっていった。
都井睦雄の事件は、単なる個人の狂気だけでなく、当時の社会的背景や村社会の在り方、そして人々の偏見や差別の中に潜む闇をも浮き彫りにしてる。この事件をモデルとした横溝正史の【八つ墓村】が世に広まり、現代においても語り継がれているのは、単なるミステリーとしてではなく、人間の心に潜む悪魔を描き出す物語だからかもしない。