最小単位を思い出し「元」に戻って考える

好奇心旺盛で興味のあるものは何でも知ってみたい。そんな気持ちがある反面、私は人の言葉そのものをそれほど信用していないのかもしれないと、最近考えるようになった。

言葉は何かとセットになって、始めて効力が生じる。それは地位や名誉の場合もあれば、経験や個性であるかもしれない。そうした言葉の背景に加えて、現在のその人の在り方、声や行動や態度、存在感なんていう曖昧なものまで含めてすべてが、言葉の持つ意味に説得力をもたらす材料になる。

言葉はそれ自体では単なる点に過ぎない。しかし、背景や言葉を形作る実体が加わることで、意味が作られる。それにより、言葉本来が持つ純粋な意味を越えて「ストーリー」が生まれていく。人はストーリーで理解する生き物だ。そうすると、言葉本来の意味からは遠ざかってしまうこともある。だから私は、人の発する言葉が強い言葉でも弱い言葉でも、あまりそれ自体について深く考えないようにする。そうしないと思わぬ擦り傷やかすり傷が増えていく。自分が傷つくことだけではない。私だって同じように、何気なく伝えた言葉で人を傷つけてしまっているのだろう。思わぬ刃を持った言葉という武器で。そう突き詰めて考えていくと、最終的に私は、何も言えないし、何も伝えられない人になってしまう。それはやはりよろしくない。

特段お喋りが好きなわけでも得意なわけでもないので、「だから話さなくていい」なんて結論を自分の中に持ってしまうと、私は恐らく、必要最低限の会話だけで生きていけるタイプだ。だからこそ、それじゃあつまらないよね、味気ないよね、という気持ちが人一倍強いからこそ、その反動で間違ってもいい、嫌われてもいい、言うべきことは言うんだ!という今の私が、いるように思う。


世の中には一見優しい言葉で人を追い詰める人もいる。嫌味とかがいい例だ。それこそ言葉そのものではなく、ストーリーで理解しようとしなければ、本来は良い言葉だったはずのものが、悪意を込めて相手に伝えられてしまう。

これって何かに似ているなぁと思ったら雲だ。雲は遠くから見ると、綿菓子のようなまとまりに見えるし、時々龍のように見えたりハートに見えたりといった具合に、様々な形に変化する。しかし、雲は本来小さな水や氷の粒の集まりだ。あの水や氷が言葉だとすると、雲はストーリーであり意味になる。

雲を見て「今日の雲は、平行四辺形に楕円が内接したような形の水や氷が集まっている」などといったところで、全然情景が伝わらない。それなら「丸い餅が斜めに潰れたような雲だ」といったほうがわかりやすい。しかしこれも万能ではなく、「いや、あれは餅じゃないよ、どう見てもみかんでしょ」なんてことを言い出す人もいるだろう。まずお互いにわかりやすい表現で前提を揃えよう、というときに、そこじゃない、今そこじゃないんだよということを言い出す人もいる。それもときには面白くていいとは思うけれど、過去を振り返ってみて、毎日そんなやりとりばかりだった頃を思うと、やはり人と人が言葉だけでわかり合うのは相当に難しいことだと思っている。私もそこで張り合って「いや。あれは絶対餅!」などと言ってしまうのがいけないという自戒も含めて。

反対に、自分と似た感覚の持ち主でも細部まで詳細を確認していけば、どこかで感覚の違いは必ず表面化する。共感覚の人とは特別な通じ合いがある反面、ぶつかったときにわかりあえなかったときの喪失は、他の人以上に寂しく感じてしまうかもしれない。

雲で言えば水や氷の間に空気があるように、人の体には水が流れている。そして、言葉を繋ぐのは余白や間だ。私はつい、言葉そのものに注目し、条件反射で会話を進めてしまうことがあるが、それよりも言葉の周辺にある余白や間で伝えようとしている人の真意を見過ごさないようにしたい、と改めて感じることが増えてきた。

普段言葉がスムーズに通じる人には、「こんなにも拙い言葉でわかってくれてありがとう」と感じる一方で、それが当たり前じゃないということも同時に意識していたい。そして、自分にない感性に触れたときは、その異なる感性を興味深く、自分とは違うという理由で排除せず、きちんと話を聞ける人でいたいなぁと思う。

そもそも人は単なる細胞の集まりだ。物事を複雑に考えたり難しく考えたりすることはとても大事なことだけれど、大きなまとまりを構成している要素はなんなのか、その元を辿ってみると本当にシンプルなことに気付く。もちろん、何でもかんでも単純化しすぎるのはよくない。しかし、物事を複雑に考え過ぎてしまったときこそ、いつでもその根源、最小単位といった「元」に戻れるような心の準備だけはしておきたいと思う。

最近の私はできるだけシンプルに自分の想いを探ろうと意識している。意味ばかり求めてしまい頭がこんがらがってしまうのが悪い癖なので、心からの欲求や感情といったものが何なのかなるべくシンプルに考えたい。

そして言葉を信用していない、と言いながらも、ある面では言葉に助けられたり励まされたりして生きていることも忘れてはならない。全ての人にわかってもらうつもりはない。誰にでも平等に言葉を届けることは難しいけれど、大切な人には、言葉を届けたい人には、言葉遊びにならないよう、しっかり自分自身の言葉と向き合っていきたいと思う。