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海上神明神社 (郡上市白鳥町那留)
白鳥町中津屋地内の白山神社から車で10分程北上し、白鳥IC東方の白鳥町那留に鎮座する海上神明神社にやってきました。
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社地西側の生活道路から東海自動車道の眺め。
鎮座地は白鳥IC東方の丘陵地の上に鎮座しますが、生活道路沿いに鳥居や社標がなく、なかなか社頭を見つけられず、何度かこの景色を見る事になりました。
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車で探していてはらちが明かないので、周辺の退避場に駐車して徒歩で徘徊。
海上神明神社への入口は写真の細い道を上り切った先になります。
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社標は道路沿いに立っていないので、写真の「郡上宝暦義民碑」の解説板が目印になります。
「この坂上、丸山公園の西側に・・・・・・」読めない。
宝暦時代のこのあたり、美濃国郡上藩の藩領で、山間地でけっして石高は多くなく、農民は重い年貢に苦しみ、一揆が頻発し郡上一揆として一帯に連鎖していった。
那留ヶ野の地もまたその一つで、宝暦5年(1755)、各地の農民約70名がこの地に集まり盟約を結び連判状を作成、江戸に向かい直訴を行う手段と実行の場となった。
丸山公園には命を顧みず行動した義民達の碑があるようです。
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解説板から上り坂を進むと中程に鳥居と社標が立てられています。
通りからここまで奥まっていると神社があるとは分からないはずです。
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上り坂中程に昭和24年に寄進された神明鳥居と右に「神明神社」社標。
そこから少し離れた先に狛犬が安置されています。
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鳥居の先の狛犬。
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年代を見忘れましたが、阿形は前脚の置き方、顔つきに愛嬌がある。
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狛犬からもうひと上りすると、小高い山の頂に鎮座する社殿が見えてきます。
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境内左の石碑と石灯籠。
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那留の集落を見渡せる高みに建てられた郡上宝暦義民碑。
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傍らの解説。
「那留ヶ野・帳締谷
今から約230年前、郡上宝暦騒動の際、上之保筋百姓衆の集まった那留ヶ野は、西方眼下に開けた一帯の地で、薮原と雑木で人家なく、大勢の人の集まった所は今はないが子持杉の近くであった。
その杉のほとりからから北へ流れる帳締谷の近くが百姓有志が笠連判状に盟約したところである。」
盟約の場となった帳締谷は高速工事に伴い変貌し、密かに集まれるような場所でもなく、子持杉も現在は残っていないようです。
郡上周辺にはこうした義民の碑は各地で見ることができます。
高速の開通は確かに便利にはなりましたが、高速が無い時代の林道や渓流など当時の姿から一変した事は身をもって感じます。
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境内最深部の社殿。
右手の朱の鳥居の稲荷神社、左が神明社。
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神明社社殿。
切妻平入で赤い鋼板屋根の拝殿は雪深い土地でよく見かける。
先日新潟に出かけてきましたが、向こうでは屋根の傾斜が更にきつく、身の丈程の基礎の上に鞘殿が建てられ、本殿の姿はなかなか見る事ができなかった。
ここ白鳥も以前は豪雪地帯で、四駆でも往生したことがあります、今は昔ほど雪も積もらないのかもしれない。
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鞘殿脇の海上神明神社の解説は以下。
「当社は天照大神を御祭りし、徳高く特に乳児に母乳を授けられることが往古より伝わる。
乳の出ぬ人が神様にお供えしたお饌米を御粥にして炊いて食べると不思議に霊験あらたかでありましたので、お参り出願者が多くなり、一般の参拝する者が多くなりました。」
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岐阜県神社庁の海上神明神社紹介文は以下。
「創立の時期は不明ですが、中世の神仏習合の誤った説により、天照大神を弥勒菩薩と誤解し、最終的に地名となりました。
文化・文政の頃、伊勢外宮の御師である御鍬様を迎えて当地に来て、五穀豊穣を祈願し、岩瀬、赤谷、中野、尾神郷など五つの村の守護神として崇敬されました。
創立以来、何度も再建され、明治維新の際に村社に列せられました。
祭礼8月25日」
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鞘殿内の本殿両脇に随神が安置されています。
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境内右の整田碑と稲荷社。
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朱の明神鳥居を二つ構え、その先の覆屋の下に流造の社殿があります。
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では参拝させてもらいます。
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狐の姿はなく、朱の鳥居がなければ稲荷社とは見えません、手前の台に昭和53年稲荷堂改築とあるので間違いないでしょう。
この稲荷の創建等の詳細は調べて見ましたが手掛かりなしでした。
海上神明神社
創建 / 不明
祭神 / 天照大神
境内社 / 稲荷社
祭礼 / 8月25日
所在地 / 岐阜県郡上市白鳥町那留1502−523
参拝日 /2024/6/19
中津屋白山神社から車アクセス / 白鳥インターチェンジ東方の海上神明神社まで約10分程。