『八重垣神社』意宇六社 3/6
意宇六社の神魂神社から約10分程西の松江市佐草町に鎮座する意宇六社の一社八重垣神社。
社頭は県道246号線沿いの松江市佐草町に鎮座しています。
写真の夫婦椿が神社の目印になるかもしれない。
この夫婦椿、その昔稲田姫命が二本の椿を地面に立てたものが芽吹き出し、地上で一体となったとされ、連理性を持つ事から稀にハート形の葉が出ることがあり、一心同体・愛の象徴のシンボルとされる。
推定樹齢400年と云われ、この夫婦椿を含め、八重垣神社境内には子宝椿、乙女椿の三本があります。
神社は県道を挟んだ道路沿いに鳥居を構えています。
木造明神鳥居と左に手水舎、随神門の先に社殿が広がる。
鳥居の扁額は八重垣神社。
八重垣神社境内マップ。
鎮座地は馬橋川支流の山口川(大神川)を挟んで東側に社殿、西側の佐久佐女の森の中に鏡の池、奥の宮天鏡神社が鎮座します。
こちらも意宇六社の一つ、というより良縁を求め水占いに訪れる縁結びの神社として認知度が高いかも知れない。
そうした事から、八重垣神社を訪れる若い参拝者が多く、神職も常駐し御朱印も手にすることができる。
大きな手水鉢に注がれる冷たい清水が、少し眠気が襲っていた自分を呼び戻してくれた。
5月も終わりを迎えるとは思えない程、梅雨を飛び越えた夏の陽気を思わせる。
随神門から境内の眺め。
右手が社務所、正面の社殿と左右に境内社、左に宝物収蔵庫が主な建物になります。
随神門の左右の間から向かい合う様に随神と木製の狛犬が安置されている。
門をくぐると狛犬があります。
空を見上げて吠えている姿だろうか、風化も著しい頭部は原形を留めていない。
八重垣神社由来記
「早く出雲の八重垣様に縁の結びが願いたい」という歌は出雲において最も古い民謡で、御祭神も八岐大蛇を退治し、高天原第一の英雄素盞鳴尊と国の乙女の花とうたわれた稲田姫の御夫婦がおまつりしてあります。
素盞鳴尊が八岐大蛇を御退治になる際、斐の川上から七里を離れた佐久佐女の森(奥の院)が安全な場所であるとしてえらび大杉を中心に八重垣を造って姫をお隠しなさいました。
そして大蛇を退治し、「八雲立つ出雲八重垣妻込みに八重垣造る其の八重垣を」という喜びの歌をうたい両親の許しを得て「いざさらばいざさらば連れて帰らむ佐草の郷に」という出雲神楽歌にもある通り、この佐草の地に宮造りして御夫婦の宮居とされ、縁結びの道をひらき掠奪結婚から正式結婚の範を示し出雲の縁結びの大神として、又家庭和合の、子孫繁栄、安産、災難除、和歌の祖神として古来朝廷国司藩主の崇敬が厚く御神徳高い神国出雲の古社であり名社であります。」
雲陽誌意宇郡 2の佐草 八重垣社
長文の記述があり、鳥居の前の連理の椿など記されています。
以下書き出しの一部から抜粋。
「風土記に佐久佐の社あり 本社稲田姫で素盞鳴 大己貴尊を配合してまつる、左の社は脚摩乳で、古素盞鳴尊簸の川上にいたりたまい 国つ神脚摩乳手摩乳の童女稲田姫のために八岐の大蛇を斬給い」、「大神川のから少し奥の八重垣の鏡の池の上に小社あり鏡の宮と号す、稲田姫をまつる」とある。
また、年代は記されていませんが、大江朝臣輝元(1553-1625)が八重垣神社を再建した棟札についても触れられていました。
創建時期は定かではないですが、素盞嗚尊が八岐大蛇を退治した後、「八雲立つ出雲八重垣妻込みに八重垣造る其の八重垣を」と詠んで稲田姫との住居を構えたのが、ここから約20分程南の雲南市大東町須賀とされ、その地に鎮座する須我神社に創建されたのがはじまりのようです。
後に、青幡佐久佐日古命が祀られる佐久佐神社の境内に遷座したという。
その佐久佐神社は延喜式神名帳(927)にも記載され、当社の他に松江市大草町の六社神社も論社とされるようです。
八重垣神社は佐久佐神社を合祀し、明治の一時期佐久佐神社と称したようですが、八重垣神社に改称されたようです。
神国島根(昭和16)の縣社八重垣神社(佐久佐神社)
以下のような内容が記されていました。
「当社は八束郡大庭村大字佐草字八雲床の鎮座であるが、社内に当国の古社佐久佐神社が坐す。
元来佐久佐神社は風土記意宇郡の條に、大草郷、郡家南西二里一百廿歩、須佐乎命の御子青幡佐久佐日古命坐す。
大草という名前が古くからあり、同じ名前の社に佐久佐社と記されています。
その祭神は大原郡の高麻山とも関連があり、古い伝承によれば、神須佐能哀命の子である青幡佐草日古命がこの山で初めて麻を蒔いたとされ、そのため、山の名前が高麻山となる、佐草は麻を指すと考えられます。
当社は仁寿元年(851)に出雲国の青幡佐草壮丁命に従五位下、貞観7年(865)に従五位上、同13年に正五位下、元慶2年(878)に正五位上を授けられた社で、承暦4年(1080)に神祇官の祓いを受けた神社の中で、当国の三社の中に数えられる名社です。
中世以降、社号は失われ、現在は当社の相殿にしか残っていません。
しかし、当社の鎮座地は佐草であり、奉仕する社家は別火の佐草氏です。
康暦3年、文安2年、同6年、康正2年などの安国寺の文書には佐草社と記されており、また、別火が奉仕していたことも記されており、この社が八重垣神社であることは明らかです。
佐久佐の社号が八重垣に変わったのはいつか。
応永元年(1394)の古棟札には「八重垣御杜二柱大神者、陰陽交泰和歌之鴻基」とあり、文亀3年(1503)の神名帳の頭注には「佐久佐、稲田姫」とあります。
これらの記録や塵袋、樋河上天淵記などから、その時期を推測することができます。
当社は毛利氏から尊敬と信頼を受け、輝元、元春、元秋、佐世元嘉、黒川元格などから寄進状や社領内の禁制などを受けています。
天正13年(1585)には毛利氏から能義、神門、大原の三郡の棟別銭を使って建設するよう命じている。
慶長6年には堀尾吉晴が佐草の中で42石の神田を寄進し、松平氏は社領を30石と定めました。
別火、筒取、藤宮寺の三つの屋敷には竿不入の特権を与え、宮大工、宮山大工、宮山廻ら、御供田、宮百姓などの屋敷を設け建設も藩費によって行われました。
そのため、同じ村の真名井神社の文書に「神魂、伊弊諾、八重垣社の儀式は、古代から国内の特別な神社に属し、杵築、御碕、佐陀の合わせて6ヶ所は、元祖以来出雲の6社として設置され、代々社参、代参があり、毎年祈祷を奉仕する社柄だ」と記されています。
明治維新の際には、式社号を復活させて八重垣神社(祭神は素盞鳴尊・稲田姫命)を相殿とし、郷社に列せられた。
しかし、大正11年に再び式社号を廃止して八重垣神社として県社に列せられました。
現在の境内は、本宮の社域(665坪)と奥宮社域(542坪)の二区に分かれ、老木の森の中に大社造りの14尺四方の柿葺きの本殿以下、幣殿、拝殿、神饌所、社務所、随神門、手水舎、伊勢宮、天鏡、脚摩乳、手摩乳、貴布禰、山神などの墳内神社が並んでいます。奥宮の境内には鏡池、蓮理椿、夫婦杉など、人々に親しまれるものがあります。」
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2024年5月23.24.25日と出雲の國を訪れ、一泊は車中泊、二泊目は玉造温泉に宿泊し出雲大社、意宇六社等を巡って来ました
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