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『出雲国一之宮 熊野大社』意宇六社 1/6

多国籍言語が飛び交い、大撮影会場の出雲大社を後にして、山陰自動車道で東方向の松江市に向かいます。
市内から国道432号線を南下し、八雲町東岩坂地内から県道53号線で八雲町熊野地内の出雲国一之宮 熊野大社に向かいます。
片側一車線ですが交通量は少なく、我先にとばかり無意味に詰め寄る車もなく、制限速度+メーター誤差順守、歩行者がいる横断歩道では必ず譲りながらも所要時間は約1時間少々。
道路と車は一流でも法令順守意識は後進国以下の名古屋の様な事はない。

上は県道を走っていると県道右側の白い一ノ鳥居と左に「出雲国一之宮 熊野大社」の社号標が最初に視界に入る。
この先の右側に無料駐車場が用意されています。
この形の狛犬も見慣れてきます。

鎮座地は八雲町熊野にあり、かつての意宇郡にあります。
意宇郡の由来は八束水臣津野命が国引きを終えた際、国引きを意恵(終わる)と言ったことから意恵(おえ)郡と呼ばれ、後に「意宇郡」と呼ぶようになったそうです。
意宇六社とは意宇郡48座のうち、特に出雲国造家と所縁の深い、熊野大社、真名井神社、揖夜神社、六所神社、八重垣神社、神魂神社を「意宇六社」として、これらを巡拝する「意宇六社」参りが古くから行われていた。

参拝客で溢れる出雲大社にくらべ、歴史のある意宇六社の中には訪れる参拝客が少ない神社もあり、現在も「意宇六社めぐり」としてNPO法人によるポスターが掲げられ参拝客の誘致に積極的だ。

ここ熊野大社は出雲国一之宮であり、意宇六社めぐりの六社のひとつ。
意宇六社めぐりといっても、無人の神社などもあり御朱印が揃うわけでも、参拝記念となる特別なイベントはありません。
しかし、自然豊かな神話の国、出雲の景観に包まれ、普段では感じる事のない日本の原風景を感じさせる神社が多く、個人的には意宇六社めぐりを勧めたい。

上は松江市南部に位置する八雲の観光マップ。
熊野大社はマップ左中央に位置し、八雲の観光スポットの南端といってもいいかもしれません。
熊野集落の西側を意宇川が流れ中海へ注ぎます。

下は駐車場付近の出雲国一之宮熊野大社の解説。
「出雲國一之宮 熊野大社
神祖熊野大神櫛御気野命(カブロギクマノノオオカミクシミケヌノミコト)を主祭神として境内中央正面の御本殿にお祀りしており、この御神名は素戔嗚尊(スサノオノミコト)の御尊称です。
他、境内右手に御后神の奇稲田姫をお祀りする稲田神社、左手に御母神の伊弉冉尊をお祀りする伊邪那美 神社、また荒神社や稲荷神社があります。
他にも随神門、鑽火殿、舞殿、環翠亭(休憩所)等様々な社殿、建物があります。
特に鑽火殿は当社独特の社殿で、萱葺きの屋根に四方の壁を檜の皮で覆い、竹でできた縁がめぐらされており、発火の神器である燧臼(ひきりうす)、燧杵(ひきりぎね)が奉安されています。
毎年の鑽火祭や出雲大社宮司(出雲國造)の襲職時の火継式斎行の大切な祭場となる社殿であります。」

熊野大社は「日本火出初之社」とも呼ばれ、出雲大社と共に出雲国一宮で、出雲国造本来の奉斎社であります。
創建については諸説あるようで、熊野大社から紀伊国に勧請されたという説と、全くの別系統とする説があるようで、社伝にはここ熊野村の住人が紀伊国に移住したとき、その分霊を勧請したのが熊野本宮大社であるとされているようです。
熊野本宮大社の由緒には出雲はじめ、そうした記載は見られません。
しかし和歌山県御坊市の熊野神社の伝記には「往古出雲民族が紀伊に植民する際にその祖神の分霊を出雲の熊野より紀伊の新熊野に勧請する途中、「当地に熊野神が一時留まりませる」ということが社由緒に記されているとも云われます。

駐車場から西に直進する石造の明神鳥居が立っていますが、これは県道沿いの鳥居から数えるとニノ鳥居になります。

ニノ鳥居から意宇川に架かる朱塗りの橋は八雲橋の眺め。
下は熊野大社「上の宮跡」の解説。
「この意宇川の川上五百㍍ 御笠山の麓に熊野大社の「上の宮」跡があります。
熊野大社は古代、意宇川の源流である熊野山(現在 の天狗山)にありましたが、中世より里に下り「上の宮」「下の宮」(現在の当社)として近世末まで二社祭祀の 形態をとりました。
「上の宮」には紀伊国の熊野信仰の影響をうけ伊弉冉尊·事解男神·速玉男神等を祀る神社が、また「下の宮」には天照大神・須戔鳴尊等を祀る神社が造営されておりました。
明治時代に至り「上の宮」の神社は、政府による神社 制度の改正を機に「下の宮」であった現在の熊野大社へ 奉遷合祀されました。
「上の宮跡」背後の御笠山の頂上付近からは、熊野大社の元宮があった熊野山が拝され、遥拝所が設けら
ています。
また登山道途中には、洗眼すると眼病に効き、あるいは産婦がこの水を服すと母乳が満ち足りると言う御神水 「明見水」が巨岩から滴り落ちています。
熊野大社」

上は八雲橋右手の由緒。
「出雲國一之 延喜式名神大社 熊野大社
御祭神
神祖熊野大神櫛御気野命
御神名は素戔鳴尊の御尊称で、神祖とは出雲大社の大国主神を始め神々の親なる神、御気野とは御食を主として人びとの衣食住に広く、尊い御神威をみちびかれて日ごとに蘇生の縁を結ばれるムスビノ大神との意です。
御由緒
日本書紀(720)は659年に出雲国造が斉明天皇の勅で厳神の宮を造営したと記し、出雲国風土記(733)は国内の186社で大社の称号を有する神社として熊野大社と杵築大社(出雲大社)を掲げ「出雲国一之宮」の 崇敬を表しています。
特に、ご祭神が初めて鑽火されたので日本火出初社とも称します。
古来、出雲国造(出雲大社宮司)の襲職は神聖な鑽火器拝戴の儀式を参向して仕える伝統があり、今も変ることなく行われています。」
御祭日は省略。

下は八雲橋から三ノ鳥居、社殿の眺め。
ここまで鳥居や参道を見てくると一ノ鳥だけが妙に右にずれています。
一ノ鳥居とニノ鳥居の寄進年や八雲橋の架橋年度など調べていませんが、駐車場造成時に一ノ鳥居が移設されたのか、もともとそれらはなく橋の先に見えている三ノ鳥居が社頭だったのかもしれません。

八雲橋から八雲山の東麗を流れる意宇川上流の眺め。
往古はこの上流の天狗山にあったものが、中世に上の宮、下の宮と二社祭祀され、現在は現熊野大社の下の宮になりました。
ここから徒歩5分程先に上の宮の跡地に至るという、更に斜面を登ると熊野大社元宮遥拝所があり。
往古の熊野大社があった磐座のある天狗山(熊野山)が望め、熊野山と神が降臨した大きな岩を崇敬する自然崇拝がはじまりのようです。

八雲橋から三ノ鳥居の眺め。
木造の明神鳥居で扁額はなく、左に手水舎があります。
正面の随神門と拝殿に架けられた二つの大注連縄が見えます。

手水舎・手水鉢。
現在の手水舎は昭和41年(1966)に新築されたもの。

鳥居右の境内マップ。
社殿は随神門の先の拝殿と奥に本殿と伊邪那美神社、稲田神社、境内左に荒神社、稲荷神社が祀られ、境内左の鑽火殿と右に舞殿が主な社殿となります。

熊野大社は「出雲國風土記」(733)に熊野大社、「延喜式神名帳」(927)に熊野坐神社とあり、日本火出初神社とも称され、古来杵築大社(出雲大社)と並び出雲の國の大社と遇され、上古朝廷の崇敬も篤く、殖産興業・招福縁結・厄除の大神として庶民の信仰も深い神代の頃から続く神社。
仁壽元年(851)従三位、貞観9年(867)正二位の神階を給い、明治4年(1871)國幣中社、大正5年(1916)國幣大社に列格された。
出雲大社宮司の襲職は、当社から燧臼(ひきりうす)と燧杵(ひきりきね)の神器を拝戴する事によって初まるのが古来からの慣で今も奉仕されている。

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2024年5月23.24.25日と出雲の國を訪れ、一泊は車中泊、二泊目は玉造温泉に宿泊し出雲大社、意宇六社等を巡って来ました

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