日光山輪王寺と大猷(たいゆう)院廟
「日光二社一寺」
よく聞くWordですが、その内訳は輪王寺、二荒山神社、東照宮を指します。
どうしても日光と云えば「東照宮」となりますが歴史的に云えば東照宮は一番新しい。
栃木DAY2の始まりは日光二社一寺の中心的存在の日光山輪王寺を訪れます。
幸運にも宿泊場所が輪王寺、二荒山神社、東照宮の目の前だったので朝一番に神橋から輪王寺に向かう。
旧日光街道から東照宮へはこの橋を渡っていく事になる。
この橋を渡るには神橋渡橋受付を介さねばならないが、web情報では8:00からとあったが当日だけかもしれないが8:30入場開始で入場クローズ。
目的地輪王寺は既に8:00から拝観窓口が開いているが、日光入口の神橋渡受付が寺社より遅れて始まるのは何か噛み合っていない。
神橋渡は諦め輪王寺に向かう。
上
神橋から国道の渡った先にある輪王寺に続く参道。
下
深沙王堂
神橋を渡った国道沿いに聳える太郎杉、その脇に鎮座する。
深沙大王は毘沙門天の化身とも言われ、勝道上人が日光入山の際、大谷川に足を止められた時に対岸に深沙大王が現れ助けてくれたという。
現在の社は1978年(昭和53)に再建されたもの。
上
観光バスが連なって走り去る国道を渡り「世界遺産日光の社寺」の石碑から輪王寺に続く石段を上り始める、ここを道なりに進めば輪王寺本堂にあたる「三仏堂」に続きます。
下
長い石段の途中で見かけた社。
詳細は分からなかった。
上
重要文化財 東照宮御旅所。
解説によれば
「本殿、拝殿、神饌所が重要文化財に指定。
日光東照宮春季例大祭(5月18日)と秋季大祭中の10月17日に百物揃千人武者行列と称される神輿渡御があり、三品立七十五膳と呼ばれる豪華な神饌が供えられ、拝殿で八乙女の舞、本殿前の石畳上では東遊の舞が奉納される祭典が行われる」
左の入母屋造の唐破風が付いた建物が本殿、中央の建物が拝殿で1617年(元和3)に造営されたもの。
1636年(寛永13)に3代将軍家光によって社殿の改修を受けたという。
下
日光開山勝道上人像
日光山は766年(天平神護2)、勝道上人(しょうどうしょうにん)に開山以来、平安時代には空海、円仁ら名だたる高僧が来山したと伝えられる。
鎌倉時代には源頼朝の寄進などを受け、江戸時代になると家康を祀る東照宮や、三代将軍家光の大猷院廟が建立されるなど一大霊場として栄え、日光二社一寺の中核をなす寺院。
勝道上人像から左手に進むと輪王寺本堂(三仏堂)に繋がる。
日光山輪王寺本堂。
訪れた時はバスを連ね修学旅行で訪れた生徒の列が多かった、長い期間封印されてきて久し振りの光景が戻ってきた。
ここは集合写真の撮影スポット、長い列ができていれば黒門や宝物殿と逍遥園を拝観しタイミングを見計らうのもあり。
これでインバウンド観光が増えてくれば日光は人で溢れるのだろう、いいタイミングで日光を訪れたのかもしれない。
本堂(三仏堂)の右前の一際大きな樹は金剛桜と呼ばれる樹齢500年の桜の古木。
日光山輪王寺本堂(三仏堂)。
輪王寺は天台宗の寺院で三仏堂、大護摩堂、大猷院、慈眼堂、常行堂、中禅寺、四本龍寺等とその他のお堂や本坊、支院を含め日光山輪王寺と総称しています。
本堂(三仏堂)は木造建築物では東日本最大級(間口33㍍、奥行22㍍、高さ26㍍)とされ、国の重要文化財の指定を受けている。
輪王寺の長い歴史の中で過去幾度か本堂は場所を変えているという。
始まりは瀧尾神社付近に創建され、江戸時代に新宮(二荒山神社)、1881年(明治14)に現在の地に移築されてきました。
朱で彩られた荘厳な建物の内陣には高さが7㍍を越える日光三所権現の本地仏「千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音」の三体の大仏と東照宮創建後は東照三所権現の本地仏「薬師如来、阿弥陀如来、釈迦如来」の懸仏が安置されていて、そのことが「日光山全体の総本堂」と呼ばれる由縁。
銅瓦葺で入母屋裳階付の巨大な建物は1645年に徳川家光により建替が行われ、その後も幾度か修復を受け近年では2007年~2018年にかけて大規模な修理が行われたという。
上
本堂左の鐘楼。
三角コーンが立てられ近寄りがたく梵鐘は見られなかった。
下
相輪塔。
本堂と大護摩堂の間にある青銅製の供養塔。
1643年(寛永20)、徳川三代将軍家光の発願により建立されたもので東照宮の鬼門除けとして建てられたという。
13.2㍍の塔の内部に1000部に及ぶ云われる経典が納めらていると云う。
後方の建物は大護摩堂。
堂の内陣には、平安中期の作とされる本尊「五大明王」や「七福神」や「十二天」等30体の仏像や祖師像が祀られている。
大護摩堂左の光明院稲荷。
鎌倉時代中期(仁治元年)、日光山総本坊として光明院を創建、その鎮守として建立された稲荷社。
光明院は戦国時代衰退、江戸時代に入り再興されたが明治の神仏分離の混乱で焼失したという。
学業成就、家業繁栄の守護神として崇敬されている。
ここから左は東照宮に続く参道。
東照宮参道。
本来の姿ではないだろう、東照宮方向を見渡しても人波は皆無。
杉木立の続く参道はかえって厳粛な雰囲気が漂う。
ここ東照宮社頭から左に進み、二荒山神社方向の大猷院へ向かう。
常行堂。
二荒山神社社頭の左に鎮座する方型造りの朱塗りの堂。
嘉祥元年(848年)に慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)によって、比叡山延暦寺の常行堂(にない堂)に模して建立されたと云う。
右隣の唐様の法華堂とは歩廊で繋がっていて、こうした構造は延暦寺常行堂と輪王寺が代表的なものと云う。
常行堂の本尊は平安時代末期に作られた宝冠阿弥陀如来(国重要文化財)で、宝冠を頂き孔雀に乗った像要で、周囲に配された法・利・因・語の四菩薩も孔雀に乗った姿。
拝観は無料で内陣まで見ることが出来る。
常行堂と法華堂を結ぶ歩廊。
朱で塗られた歩廊と屋根の銅瓦と黒漆、彩色された彫飾りの鮮やかな色合いが美しい。
緩やかに曲線を描く唐破風も優雅なものだ。
常行堂と法華堂の目立つ建物を結ぶこの歩廊も見所の一つかも知れない。
法華堂(法華三昧堂)。
現在の建物は江戸初期の1649年(慶安2)に再建されたもので歩廊を含め国指定重要文化財。
本尊は普賢菩薩で、脇侍に鬼子母神、十羅刹女が祀られていますが非公開となっています。
朱で彩られた建物はそれ自体が派手、手挟にはこれでもかと言わんばかりに鮮やかに彩色された彫が施されている。
延暦寺常行堂を真似たとされるが、派手さは延暦寺にはない物かも知れない。
日光廟大猷院。
1651年(慶安4)に48歳で亡くなった徳川三代将軍家光の廟所。
大猷院は後光明天皇から賜った家光の諡号から来ている。
伽藍は後方の大国山の斜面を生かし複数の門をくぐりながら拝殿、本殿に続き、墓所のある皇嘉門に至る。
家光の遺言は家綱に受継がれ、東照大権現(徳川家康)を凌ぐ派手な建物の建造を戒めたとされますが、建立された拝殿などは黒漆が塗られ、その上に金箔を押した極彩色に彩られたもので、その姿から金閣殿とも呼ばれると云う。
まず最初に現れるのが仁王門(国指定重要文化財)。
左右の袖塀には密迹金剛力士と那羅延金剛力士の阿吽の仁王像が安置され、ここから先に邪悪なものが入り込まないように立ちふさがっている。
切妻銅瓦葺きの八脚門で1653年(承応2)に建てられたもの。
鮮やかな朱が目に飛び込んでくるが、梁から屋根にかけて塗られた黒漆と金箔で彩られた全体の外観は以外に落ち着いた佇まい。
上
宝庫。
仁王門をくぐると左手にあり、江戸時代初期の1653年(承応2)に建てられ、国の重要文化財にしていされている。
入母屋銅瓦葺きの平入で、正面に施された向拝の蟇股や斗供には鮮やかな彩色が施されています。
大猷院で受け継がれて来た宝物を保管する為のもので、そうした性格の建物だからか定かではないが校倉造で作られています。
下
龍光院続く参道(立入禁止)に建ち並ぶ石灯籠。
大猷院には300基を超える燈籠があるという、それらは182家の大名からの奉納されたもので、多くが1653年(承応2)の奉納と云う。
龍光院前に建ち並ぶ灯籠は10万石以下の大名から奉納されたものばかり、彼らはこの先の二天門から先に立ち入る事すらできなかったという。
境内の高さは格の高さでもあるようだ。
因みに東照宮を越えてはならない家光の遺言に対し、燈籠の数では東照宮の倍を超えるという。
御水屋。
仁王門と二天門の間にあり1653年(承応2)に建てられたもので国の重要文化財に指定されています。
切妻銅瓦葺きで唐破風が付く、屋根を支える柱は三本柱の四つ脚。
下
水屋の天井には江戸初期の狩野派の絵師狩野安信の手による墨絵の雲龍が一面に描かれている。
別名鏡龍や水飲み龍とも呼ばれるようで、手水鉢の水面に天井の龍が映し出されたその姿からその名が来ていると云う。
現在は御覧の通り劣化が著しく図柄は分かり難い状態で、水面に龍が映し出される姿を見たいものです。
二天門。
1653年(承応2)の建立とされる入母屋銅瓦葺の八脚楼門で前後の屋根に唐破風が施されている。
朱を基調として、上層は黒漆に金箔、組物は極彩色で彩られていて、東照宮の陽明門より重厚感が漂うが派手〃には変わりないか。
正面に掲げられた金色に輝く「大猷院」の扁額は後水尾天皇宸筆のもの。
二天門の名から分かるように、両脇の間に持国天(左)、増長天(右)の二天が安置されています。
二天門裏側。
裏側の間には風神と雷神像のレプリカが安置されています。
オリジナルは修復され輪王寺宝物殿で一般公開されています。
風神と雷神像はもとは東照宮の陽明門に安置されていたという。
明治政府による神仏分離に伴い、仏式の色合いが強い大猷院は輪王寺に組み込まれ、風神と雷神は二天門に遷されたと云う。
二体の険しい顔はもの言いたげな表情にも見えてくる。
二天門から石段を進むと境内が広がり、左右対称に立つ鐘楼に視線が行く。
左側が「太鼓楼」、右が「鐘楼」で入母屋銅瓦葺で袴腰が施されている。
夜叉門。
鼓楼と鐘楼の先に一段高く石垣が積まれた境内に建つ門で仁王門と同様の作りの八脚門。
門の左右は回廊で繋がれ、名の通り四体の夜叉が安置されている。
正面の間に安置されている毘陀羅、阿跋摩羅。
間の壁面は金色に輝く牡丹の花が彫られている。
極彩色の妻飾りとキンピカの組物に木鼻飾り。
二天門から先に立ち入りが許されなかった小大名から見たら何と思う事か。
格差の違いは今も同じか。
後方には烏摩勤伽、犍陀羅を安置する。
こちらも牡丹で埋め尽くされている、そうした事から夜叉門は牡丹門とも呼ばれるそうだ。
唐門。
境内は一段上に上がり瑞垣に囲われた入口に建つ。
後方に拝殿、相の間、本殿と伽藍が続く。
手前に立ち並ぶ銅燈籠、ここまで来ると燈籠は更に立派なものになる、ここは徳川御三家から奉納されたものばかり。
上
向唐門の正面。
辰年生まれの家光という事で破風の下には黒漆地に金の波が描かれ、中央に玉を握りしめた白龍が彫られている。「青海波に玉取りの白龍」と呼ぶそうだ。
更に上には羽を広げた二羽の白い鶴が彫られている。
下
裏側も同様に白龍と鶴が施されている、細かく彫り込まれた飾りはこれに留まらい。
こちらの白龍は金地に靑の波が描かれていた。
上
大猷院拝殿から本殿方向の眺め。
拝殿は内部の拝観ができ解説もしてもらえる、内部の写真撮影はNG。
内部は狩野探幽の手によって描かれた唐獅子の障壁画や格子天井には狩野一門による140枚の龍の絵が描かれている。
その他にも家光が着用した甲冑なども公開されていた。
興味深い話が聞けたのだが思い出せない、解説の録音は許してくれるのか聞けばよかった。
金色のこの空間は歴代の将軍が参詣するための建物、そこに座り内部を見られるちょっとした将軍気分が味わえる。
下
本殿(金閣殿)から拝殿方向の眺め。
東照宮と同様の権現造ですが東照宮に比べ落ち着いた佇まいに見えてくるから不思議だ。
皇嘉門。
本殿域右の斜面に立つ大陸の香りが漂う門。
シックな白漆喰と上層や扉の煌びやかさから「龍宮門」とも呼ばれるという。
家光の廟所に続く門で、一般公開されているのはここまで。
この右手の最上段に最後の門となる鋳抜門があり、その先に家光の眠る宝塔が立てられている。
祖父家康を凌ぐ派手な建物の建造を戒めた遺言は伽藍を見る限り受け継がれた様にも見える。
東照宮の主家康の遺言は「臨終したら体は久能山へ納め、葬礼は増上寺で行い、位牌は三河大樹寺に立て、一周忌以後に日光山に小堂を建て勧請せよ」だったと伝わる。
家康の思い描いた小堂が東照宮だったのだろうか、それ次第で大猷院もまた別の姿になっていたのだろう。
東照宮の胡粉の白と金を基調とする分かりやすい装飾に対し、黒漆と金を基調にした大猷院は落ち着いた印象を受ける。
身分制度の底辺の者の視点でこれらを見た時控え目と云われてもどうなんだろう。
日光山輪王寺
宗派 / 天台宗
山号 / 日光山
創建 / 766年(天平神護2)
開基 / 勝道上人
本尊 / 阿弥陀如来、千手観音、馬頭観音
大猷(たいゆう)院廟
建立 / 1653年(承応2)
所在地 / 栃木県日光市山内2300
参拝日 / 2022/05/11
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