【エッセイ】 #3 ふるえて、生きる。
最近、「伝え方が9割」という本を最近読んだ。
その本では、とある牧師の詩が紹介されていた。
そしてなぜだか自分はこの詩を読んで、
ずっと内に秘めていた思いが掘り起こされた気がした。
ーーー東京の夜は、案外静かだったりする。
夏の花はなんだったろうか、秋桜の季節はもう終わってしまった。今は春。そんなことを頭で走馬灯のように巡らせる。
今回はきっかけと頭でふと考えたことがあるので、少し文章にしてみることにした。頭を整理させる程度なので、悪しからず。
ふるえているのは、生きている証
人はふるえながら生きるものだ。
しかし、これには
・震えて生きる
・ふるえて生きる
この2つの意味がある。
「震えて生きる」とは、怯えて生きるということだ。
人は何かに怯えて生きている。そんなことない、と言う人がいるかもしれないが、大抵の人は怯えている。
なぜ、怯えているのか。簡単である。
人は生を受けた以上、死へ向かう生き物であるが案外人は死に怯えることは少ない。(例外はあるにせよ)
人は「自分の生き方」に怯える。
受験、就活、キャリア、人間関係。
人は生きる中でこうした得体の知れない、鉛色の不安に苛まされ続ける。
暗闇の海で、漕いでも漕いでも何も見えない。自分がどこに流されているのかもわからない。目印となるものもない、あっても信じることができない。もはや自分がどこにいるのかさえも、わからない。
だから、それらしき目印に向かって漕いでは、また暗闇へと向かう。
怯え、震えながら。
これが「震えて生きる」ということだ。
決して間違っていることではなく、当たり前なのだ。
漕いでいるからこそ人は怯えている。怯えていない人間は、どこへも行かない。沈むか、暗闇を彷徨うだけ。
だから怯えているというのは、震えながらも「生きている証」なのだ。
「心がふるえる瞬間」を信じて生きる
そしてもう一つ、は「心をふるわせて生きる」ということ。
心がふるえている、とはどうゆうことだろう。
最後にいつ、そんなことを感じただろう。
今読んでくれているあなたの、心がふるえた瞬間はいつだろうか。
人間は心をふるわせて、生きている。
富、名声のためだけでは心はふるえないだろう。
例えば宝くじで億の財産を手に入れたとしても、あの熱い胸から湧き上がる刹那的な感覚を感じることはないだろう。
人は心がふるえる瞬間を目指して生きている。
努力の果てに辿り着く景色、何も灯りのない暗闇を震えながらも己だけ信じた先の景色、何気ない生活の中でふと感じる幸福。
人それぞれではあるが、人は目指した先か生きている中で感じるであろう「心がふるえる瞬間」を信じて生きているのだ。
だから、人はふるえて生きる。
ふるえることで、生きていくのだ。そしてその形は人それぞれである。
自分の心をふるわせる何か。
もし今何か不安を抱えて生きている、生きることに焦燥感があるという人は考えてみてほしい。
人は「ふるえて生きる」ものであると。
今あなたが感じている不安も、後悔も全ては暗闇の中を漂い、それでもあなたが漕ぎ続けている証なのだ。そしてそれは誰にでも当てはまる。
でもそうした震えを力に変えることができるのも人間である。
それが「心をふるわせて生きる」ということ。
一見すると自分を信じて生々と生きているように見える人も、実は怯えているのだ。
それでも彼らが生々としているのは怯えながらも、その震えを力に変えているのだ。
彼らは「自分の心をふるわせる何か」を知っている。
だから一見暗闇に見える海でも、彼らは突き進んでいく。
いつのまにか、怯えの震えも心のふるえもわからなくなる。そうして、力強く生きている。
だから僕らも心をふるわせよう。
ふるえながら生きよう。
そんなことを考えられた3月の夜でした。