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RSGT2025で省略した専門知識の紹介
30秒でチケットが売りきれるという大盛況だったRegional Scrum Gathering Tokyo 2025(RSGT2025)にて、講演の機会をいただき、下記の発表をしました。
『「あの人たちが協力的ならうまくいくのに!権限もないから進められない!」トレードオフの連続解決を通して、対立を協力に変えるプロダクトマネジメントチームを実現するぞ』
発表では、専門用語をできるだけ使わず、どのような業界でも、社会人1年目でも理解できる構成を目指しました。この記事では専門的な補足をします。今回の発表の裏テーマに密接に結びついた3人の観点から簡単に紹介します。より知識を深めたい方向けです。
eXtreme Programmingのケント・ベック
今回の講演は、eXtreme Programmingの重要コンセプトであるsocial changeの具体的な行動プロセスを、企業の経済活動とも調和する形で試みました。
「相手を説得しよう,相手が言うことを覆して自分が言うことを納得させよう」という態度では決して伝わらないのである。「まわりの人間のどこが悪い,ここが悪いという点に注目するのではなく,ポジティブな方向性でよりよくものごとを変えていく」という心構えが必要だという。
Beck氏は,アーキテクト,プログラマ,テスターといった古典的な役割分担の弊害にも触れた。「分業体制では,責任を分けることで,その部分しか責任を負わないことになってしまう」というのだ。ただ「5年前,10年前にはプログラマはテストを書いていなかった。ところが,今は書いている。役割分担に対する見直しが起こっている」(同氏)。
スライドの中の「全てはプロダクトである」とは、自分達の仕事そのものも社内の誰かにとってのプロダクトであるのと同時に、プロダクトを生み出す私たち自身もプロダクトです。魅力があるから雇用されるわけです。
プロダクトは買ってもらうために顧客に提案します。同じように自分の仕事も、自分自身も、提案していくことによって、価値の連鎖を社会にまで届けることができるというものです。
これは私独自の考えではなく、企業はなぜ存在するのかを取引コストからひもといたノーベル経済学賞のロナルド・コースやオリバー・ウィリアムソンがベースです。組織がこの世界に存在するのは、いちいち市場から取引を通じて労働力を購入するのは手間暇がかかり取引コストがかかるが、一緒に仕事をすること(内部化)によって低コストを実現できる、というものです。
「なぜ企業が存在するのか?」という基本理論を、チームビルディングや意思決定の文脈で語られることは見たことがありませんでした。今回がきっかけに議論が盛り上がると嬉しく思います。
そして相手にとっての魅力な提案とは、相手がこれまで犠牲にしてきたトレードオフを解決することによって実現できるという話をしました。
ところで講演参加者には全く言及していないにもかかわらず、ケント・ベックにとっての長年の課題ついて関連づけたコメントをリアルタイムでいただくなど、参加者の練度の異常な高さを感じました。講演とは講演者だけで構築するものではなく、参加者との相互作用であると実感できる出来事でした。
キーワード
・ケント・ベック
・ロナルド・コース
・オリバー・ウィリアムソン
システム理論のラッセル・エイコフ
RSGT2025の翌々日には録画動画が参加者限定で公開され、さっそく参加者のコミュニティで視聴していただきました。その際に「ベルタランフィな話だ」とコメントいただき、元ネタを言及される出来事がありました。
ルートヴィヒ・ベルタランフィは「一般システム理論」という、さまざまな性質を持つ部分要素の相互作用によって全体の性質が表れるシステム(系)を理論化しようとした方です。今回の講演ではベルタランフィの流れを汲み、経営科学との接続を行ったラッセル・エイコフが明らかにしたシステムと問題という概念が大きなベースとなっています。
https://en.wikipedia.org/wiki/Russell_L._Ackoff
エイコフは現在の日本ではほとんど知られていませんが、オペレーションズリサーチやシステム思考を切りひらいた一人です。2024年にようやく復刊した宮川公男先生の名著である『OR入門 』では、エイコフの分類を元に解説されます。
https://www.amazon.co.jp/dp/4621309749/
目次 https://www.maruzen-publishing.co.jp/item/b306001.html
エンジニアの方にとっては、問題解決の書籍として定番のジェラルド・ワインバーグの『ライトついていますか? 問題発見の人間学』との関連が馴染み深いでしょう。問題解決において有名な寓話ですが、エイコフの『問題解決のアート(The Art of Problem Solving)』(絶版)をベースにしたものだと推測しています(違ったら教えてください)。
エレベーターの待ち時間の寓話とは、構想ビルでエレベーターを待っている人達がイライラしていて、それを解決したいというものです。エレベーターの台数を増やしても、スピードアップをしてもイライラは収まりませんでした。ところが鏡を用意すると、待っている時間は身だしなみ整えることで不満がなくなった、というものです。エレベーターの台数の少なさや遅いこと問題なのではなく、待っている時間が退屈と感じられることが問題であると定義することで非常に低価格で解決できたというものです。
キーワード
・ラッセル・エイコフ
限定合理性のハーバート・サイモン
三人目がハーバート・サイモンです。チューリング賞とノーベル経済学賞の両方を始めて受賞したサイモンは1955年に最初期の人工知能を発表した方です。
多方面に実績を残されていますが、ノーベル経済学賞になった研究が「限界合理性(bounded rationality)」です。人は合理的に判断しようとしても、認知的な制約や情報処理能力の限界があり、そのなかで判断しているというもので、「企業内の意思決定」という分野を切りひらいたものです。限られた情報や、反対にあまりに膨大な情報の中で意思決定をどのようにしていくかを考えるとき、サイモンの概念を間接的に利用しているかもしれません。
今回の講演では、分業によって仕事の複雑性を削減し、人びとの限界合理性の内側で仕事ができるようになる一方で、分割された仕事の統合は複雑さを扱うことが必要となり、結局は放置され組織を疲弊させるというものでした。トレードオフは自己利益と限界合理性によって恣意的に操作されてしまいます。本来はマネジメントレイヤーがリードするところですが、彼らが率先して実施してしまうとひどいことになる、というものです。
近年、似た概念として「認知負荷理論」というワードをよく聞くようになりました。1980年代に学習科学や教育心理学分野のジョン・スウェラーによって研究されたものです。こちらはよりよい教材や指導を目的とした研究になるため、実際の仕事において認知負荷理論がどの程度有効なのかは注意が必要でしょう(限界合理性も同様です)。
すごく粗いものですが、企業内の意思決定は限定合理性、教育分野における認知的な負荷は認知負荷理論と分けて理解するといいかもしれません。
またトレードオフの表現はサイモンの『Human Problem Solving』で解説された問題空間(Problem Space)をベースにしています。メカニズムは「手段目標分析」が分かりやすいでしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/手段目標分析
キーワード
・ハーバート・サイモン
・限界合理性
・問題空間
・手段目標分析
・ジョン・スウェラー
・認知負荷理論
問題空間や難易度は下記で説明していますのでよければどうぞ。
今回の発表を見られた方が、より効果的な協力を社内で実現できたり、あるいは工学や経営学との繋がりの理解を深めることに繋がれば嬉しく思います。