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【映画コラム】スピさんと銃とシュガーランド

(※『E.T.』、『続・激突!/カージャック』、『ウエスト・サイド・ストーリー』のクライマックスや結末について書いてあります。未見の方はスルーされるか自己責任でお読みください)

E.T.たちはなぜ飛んだのか?

昨年末のある夜、いつものように仕事をしていたら、妻がケーブルテレビ(で見れるCS)で『E.T.』(1982)を見ていた。私が気付いた時は、もうクライマックス近かった。

これ、どっちのバージョンだろう?と思って、しばらくの間、仕事の手を休めて背後のテレビを見ていた。

少年チャリンコ団を追いつめる警察官たちの手に、拳銃やショットガンが握られている。

オリジナル版だった。後に公開された20周年記念版ではなかった。

このニューバージョンは、オリジナル版ではアニマトロニクスなどを使っていたE.T.の姿をCGに置き換えるなど、技術の進歩によって可能になった表現を多数採り入れたりするなどした「アップデート・バージョン」だったが、評価はよろしくなく、監督のスティーヴン・スピルバーグ自身も、製作したことを後悔したと聞いている。

大きな違いの一つが、最初の方で触れた、クライマックスで逃走する子供たちを追跡する警察官たちが持っている銃器類が、CGによってトランシーバーなどに置き換えられているところだ。自身が父親になってから、「子供に銃を向けるのはいかん!」と考えて、ずっと修正したがっていた部分だと言う。

スピさんの気持ちは分かるが、これはある意味一番の愚行だったと思う。

自分たちを待ち構える警官がショットガンを構えるのを見たエリオット(ヘンリー・トーマス)は「もうダメだ!」といった表情になる。その絶望感がE.T.に伝わったからこそ、E.T.は念力で子供たちを空へ飛ばしたわけで、それがそのままあの名シーンのカタルシスになる。それがトランシーバーだと、空へ飛ばす必然性もカタルシスも激減してしまう。

繰り返すが、スピさんが「銃はいかん!」と考えたことは至極真っ当なことだと思う(とは言いつつ、銃がたくさん出てくるアクション映画も好きなので、きれいごとを言うつもりもない)。それは彼が父親になるはるか前、彼の劇場映画デビュー作でもしっかり叫ばれている。

『E.T.』


シュガーランド急行

元はテレビ用の映画だった『激突!』(1971)が大評判になった上に、ヨーロッパや日本では劇場公開されたことで、アメリカ国内だけでなく世界中の映画ファンにスピルバーグの実力が知れ渡った。そこで満を持して彼が劇場用映画のデビューを果たした作品が『続・激突!/カージャック』(1974)だった。とは言うものの、あくまでも「スピルバーグ」の固有名詞が世界中に浸透するまでには至っておらず、「あの『激突!』を撮った若造監督」という代名詞でのブレイクだった。まさにそういうノリで付けられたとしか思えないこのあまりにもひどい邦題が、その事実を象徴している(両作の物語にはまったく関連がない)。

1969年にテキサスで実際に起こった事件を基にしたこの映画の原題は『The Sugarland Express』。直訳すれば「シュガーランド急行」。シュガーランドとはテキサスにある都市の名前だ。

共に軽犯罪で刑務所に収監されたクロヴィス(ウィリアム・アザートン)とルー・ジーン(ゴールディ・ホーン)のポプリン夫妻。その間に、彼らの愛児ラングストンは福祉局によって里子に出されてしまう。先に刑期を終えたルー・ジーンはクロヴィスを脱獄させ、赤ん坊を取り戻すために里親が住むシュガーランドへ向かおうとする。ところが、思わぬ出来事が重なった結果、若夫婦はハイウェイ・パトロールの若い巡査スライド(マイケル・サックス)を人質に、パトカーを乗っ取ってシュガーランドへ向かう。スライドの上司タナー警部(ベン・ジョンソン)は自ら指揮を執り、パトカー軍団を率いて彼らを追跡する。とは言え、スライドが人質になっているため迂闊に手が出せず、膠着状態のまま追跡が続く。ところが、その道中で地元の警察の無関係なパトカーやマスコミの車、さらには夫婦を応援する沿道の住民たちの車などが加わり、お祭り騒ぎ状態になってしまう。

夫婦に同情したスライドは次第に彼らと友情で結ばれるようになり、夫婦の目的があくまでも子供を取り返すことだと知ったタナーも極力強硬策を避けて彼らを見守ることにする。

やがて、彼らのパトカーはシュガーランドの里親の家に着くが…。

私は個人的には、スピさんの映画の中ではこの作品が一番好きだ。無数のパトカーが延々と連なっていく光景はある意味スペクタクルだし、まさに「金魚のフン」的なユーモアも漂う。事件がどんどん変な方向にエスカレートし犯人たちが民衆に支持されていく展開は、本作の翌年に公開された『狼たちの午後』(1975)にも通じる。言わば、ロードムービー版『狼たちの午後』。数多くの笑わせどころを設けながらもあまりにも苦い結末は、アメリカン・ニューシネマ的でもあるが、そこまで後味は悪くない。

鮫も宇宙人もトレジャーハンターも出て来ないが、この作品はスピルバーグ映画の魅力と重要な要素に満ちている。その一つが、ジョン・ウィリアムズの音楽だ。以後、現在に至るまで続く(と言っていいだろう)スピさんとの名コンビも、この作品から始まったのだ。とは言え、二人のコラボの一般的なイメージである大編成のシンフォニック・スコアではなく、名手トゥーツ・シールマンズのハーモニカとストリングスがメインとなる小編成。ハーモニカが哀愁を帯びたメロディを聞かせるメインテーマの味わいも素晴らしいが、面白いのはタナーの出動や追跡開始などのシーンに流れる曲。スネアドラムによるミリタリー調の響きが主体となり、時折ストリングスがアクセントを付けるが、曲が盛り上がったところでハーモニカが乗り、明るく軽快なメロディを奏でるのだ。緊張感の中にどこかユーモラスな響きを乗せることで、この後展開するお祭りキャラバンを暗示させる。まさに「阿吽の呼吸」と言える二人の名コンビぶりは、すでにここから始まっていたのだ。

『続・激突!/カージャック』


父と子供たち

スピルバーグ映画にトレードマークのように必ず登場する要素が「父と子(主に息子)」だ。初期作で言えば『ジョーズ』(1975)で、悩むブロディ署長(ロイ・シャイダー)の目の前で幼い息子が父親の真似をするシーンが、短いが何とも言えない情感に満ちたものになっていた。その後の作品のほとんどに「父と子」ネタが登場する。

この作品の場合、ストレートに考えたらクロヴィスとラングストンのことになるのだが、劇中で印象に残る二人の描写はほぼ皆無と言っていい。その代わり、私がこの映画を観るたびに感じるのは、私の拡大解釈(と言うより妄想)かも知れないが、タナーを父親とする「疑似父子」である。

これもまた、順当に考えたら、上司のタナーと部下のスライドがその関係に当たるし、実際の作品中でもそんな感じが漂っているのだが、さらにクロヴィスとルー・ジーンまでもが、タナーと親子のような雰囲気を漂わせていくようになるのだ。時に子供じみた要求もしてくるこの若夫婦を見守るタナーの眼差しには、どこか父親のような温かさすら漂っている。それでも職務上、夫婦には毅然とした態度で臨み、追跡を続ける。ジョン・フォードやサム・ペキンパーなど数々の名監督に重用された名脇役のジョンソンの渋さが見事に活かされたキャスティングだ。

となると、強いて例えれば、クロヴィスとルー・ジーンが出来は悪いが根っからのワルではない息子と娘、スライドが出来が良くて優しい息子。両者の年齢接設定ははっきり分からないが、曲がりなりにも夫婦で子供までいつポプリン夫妻に比べると、結婚していない分スライドが夫妻よりも年下にも見える。

つまり、ちょっと不良の兄と姉が事件を起こし、それに巻き込まれた末弟が仕方なく付き合いながら、悪事を止めるように説得している。しかし、彼らを追う父親にとっては、どちらも可愛い。この映画を何度も見てきた私には、主要キャラたちが何だかそんな風な人間関係に見えてくるようになってきた。

『続・激突!/カージャック』


彼らは銃を使わなかった

妄想はこの辺にして、ちゃんとした(?)分析に戻ろう。

夫妻はスライドから銃を取り上げてはいたものの、手荒な真似はほとんどしない。そんなことが目的ではないからだ。だが、彼らの行く手では、地元の警察や予備役の軍人たちが待ち伏せしていて、タナーの意に反して夫妻に向けてガンガン銃を撃ってくる(ダジャレになってしまった…)。“凶悪犯”を仕留めることが目的だからだ。もう、どっちが凶暴なのか分からない、という皮肉(何せテキサスだから)。そして、このカージャックに終止符を打ったのも、結局は銃だった―――。

ようやく自由の身になったスライドのところにタナーがやって来て、夫妻に奪われていた彼の銃を手渡しながら言う。
「これが欲しかったんだろう?」
しかし、スライドは悲しそうにつぶやく。
「彼らは、一発も撃たなかったんです。」

まさに、先ほど触れた“皮肉”の仕上げのような一言であり、スピさんがこの作品に込めたメッセージでもある。さらに言えば、大変なことをやらかしてしまった兄と姉をどこまでもかばい続ける心優しき末弟の姿でもある。
ただし厳密に言えば、スライドのこの言葉は、実は正確ではない。英派の前半で、スライドを人質にとる際にクロヴィスは威嚇で1発だけ拳銃を発射しているのだ。これをどう推理・解釈するか。考えられるのは、

(1)   脚本のミス
(2)   発射したことをスライドが忘れていた
(3)   発射したことをスライドが「なかったこと」にした

(1)はあまり考えられないし、考えたくもない。
(2)は、スライドが疲れ果てて忘れていたか、忘れてしまうぐらい夫妻との友情が強くなっていたのか。
(3)は(2)の後者に近い心理状態だったか、それとももっと広く「この国の銃社会はいかん!」という気持ちになっていたのか。ただ、モデルになった巡査は事件後も警官を続けたということなので、後者はちょっと考えられない。やはり、わざと黙っていたのか本当に忘れていたのか分からないが、いずれにしても夫妻との友情と自分の職業との間で苦悩していたゆえの「事実と違う表現」だったのかも知れない。とは言え、スピさんが銃社会に対して批判的であることに間違いはないだろう。


そんなスピさんの最新作が、あの名作ミュージカルの再映画化『ウエスト・サイド・ストーリー』(2021)であることに驚いたり、出来を心配する方もそれなりにいるだろう。すでに試写を拝見したので近いうちにここでレビューをアップするつもりだが、最小限の案層だけ書いておくと、「これはこれで十分傑作!」。

で、この映画(と言うか、原作のブロードウェイ・ミュージカル)も、恐らく偶然ながら、銃が起こす悲劇で幕を下ろす。やっぱり「銃はいかん!」と言うことなのだろう。


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