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同調圧力の悲劇

最近、と言ってももう1~2週間は経っている、かな。
(なんか、1~2週間ってすっかり「便利な」言い方になってるなぁ)

スポーツ選手やミュージシャンや、いわゆる「有名人」たちが、「批判はやめよう」的なことを言い始めているみたい。
いや、正確にははっきりとはそう言わず、ふわっとした言い方で。

原発事故後もそうでした。
「冷静な対応を」とか「不安を煽るな」とか。

いや、もちろんその通りです。
個人に落ち度を「自己責任」として押し付けて、対立するべきじゃない。
「被害者叩き」の類は特に、なくしていった方がいいと、ぼくも思います。

だけど、政府や企業に対しての批判は、「足を引っ張る」わけじゃない。
京都大学の安田陽さんという方がTwitterで、「批判を封じる風潮はそれ自体がリスク源」と書かれています。
ほんと、そう思う。

けれど、体よく「助け合い」「団結」が呼び掛けられる。
個人個人の「努力」や「がんばり」に託されてしまう。

「今は批判なんてしている場合じゃない」
「国を批判するのは簡単です」

ほんとにそうですか?
それに、それって「同調圧力」ってやつじゃないの?


あるラジオ番組を聴いていて、でもショックで途中で止めてしまいました。
ミュージシャンが、そういう「同調圧力」に抵抗できずに、むしろそれを「押し付ける側」になってしまう、なんて。

「痛いほど気もちはわかります」なんて、氣休めを言うけれど。
申し訳ないけど、全然「わかってなんかない」よ。

あなた方は、一ヶ月でも二ヶ月でも、家にいても困らないんでしょう。
だけど、それではもう生活が成り立たない人がほとんどです。

とは言え、感染防止には人との接触をできるだけ少なくすることが得策。
だから、諸外国では外出を禁止する、その代わり補償をする。

なのに、この国の政府はいまだに「自粛しろ」、でも「補償」はしない。

なぜ、政府に「兵糧攻め」をされないといけないの?
ウチも、このままいくと妻のお給料が全額出ない可能性も出てきました…。
今だってもうギリギリで生活しているのに、どうしろと?

それを簡単に「わかる」なんて言うなよ、ミュージシャンが。

「ウイルスが終息してから」では、遅いんです。
批判はいつでも誰でもできる、そんな簡単なものじゃない。

現時点で、閉店しているお店だって出てきました。


好きだったミュージシャンなだけに、ほんとに悔しい。
コマーシャライズされてしまうと、もうダメなんでしょうかね、残念です。

ぼくも、氣もちのどこかで「有名になりたい」的な想いって、あるけれど。
「なれないだろ」とは思いつつ、万が一なれるチャンスがあったとしたら、そのときは「放棄」できるだろうか。

「魂」を売りたくは、ないなぁ。


そもそも、ラジオだってコマーシャライズの権化、みたいなものか。

一年前、引っ越ししてすぐの頃、晩ごはんをつくりながらラジオを聴いていました。

ぼくは過去、あまりラジオを聴いてこなかったので、もしかしたらずっと前から、なのかもだけど。
とにかく「宣伝」が多いしつまらないしで、ビックリ。

なんだろ、「広告」ってだけじゃなくて、すごく媚びを売ってる感じ。

いわゆる「ステルスマーケティング」?
いや、「ステルス」でもなんでもない、全然「こっそり」じゃない。

今は「共感」の時代、なんて言いますが。
それ、ただの「同調」だよ、ということが多いんだなって。

「わかってくれない」という人に限って、人の話を聞かない。
多少聞いても、寄り添うつもりがないから、違う意見を最初から土俵に上げない。

「批判をやめませんか」そのものが、言う人の立場によってはすごく力のある「批判」になる。
土俵に上げない、そこを選別して他に選択肢がないように見せかける。

そうやってつくられる「多数」がじわじわと圧力になっていく。

マスメディアは特に、そういうのが得意だから。

レディオスターの悲劇ならぬ、同調圧力の悲劇。
新聞もラジオも、そうやって戦争に加担していったんじゃないか。

反省が活きてない、というより、そうだよね、元々反省なんかしてない。

芸術家だって文化人だって、その反省を忘れちゃいけないんじゃないの?


昨日、ピーター・バラカンさんの『ピーター・バラカン音楽日記』という本を久々に手にとりました。

一番最初が、「ラジオDJに選曲の自由はあるのか?」。
そこには、トム・ペティの『The Last DJ』というアルバムが紹介されています。

ぼくはトム・ペティ大好きで、このアルバムももっているのですが。
オープニングのタイトル曲「The Last DJ」が、あまりにもキャッチー過ぎて、妻から「耳から離れなくなる」とやんわり禁止されてしまい…。
まあ、ヘッドホンで聴けばいい、んですけどね。

以来、何となく聴かなくなってしまったなぁ。
探して、また聴いてみよう。

そのコラムの中で、ピーター・バラカンさんはこう書いています。
「それだけ世界の電波は画一的なフォーマットに支配されていて」
「このシステムが消費者の選択肢を制限するものだと訴えるトムにぼくも同意」
だいぶざっくりと抜き出していますが…、アメリカでもそうなのですね。
(このコラムもアルバムも、2002年のもの)


そんなこんなで、一昨日の「コラボ」騒動。
言うまでもなく、「コラボ」でも何でもない、「政治のオモチャ」にされただけ。
政治利用、ですらないよ、ただの人氣稼ぎでしょう?

星野源さんに落ち度があったとしても、そこを責めるのはおかしい。
こんなの、「ハイジャック」じゃないか。
むしろ、こんなときこそミュージシャンは「一致団結」して、怒りを表明するべきなんじゃないの?

いつまで、政府や企業の太鼓もちでいるつもりなの?

星野源さんには、皮肉や風刺たっぷりの、返歌を期待したいな。

そしてぼくも、今つくり直している『アベコベ⇔シンドローム』、早く完成させてUPしたい。


音楽を奪われるなよ。

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