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The Show Must Be Paused

自分なりに、「レイシズム」について、いろいろ考えています。
なぜ人種差別はなくならないのか、〈差別〉というものをどうしたらなくせるのか。


そもそも、「レイシズム」とは?

小沢健二さんがTwitterに、「racismの訳語は「人種差別」ではなく「人種主義」です」と書かれていました。
その後に「人種なんて科学的にあり得ません」と投稿しているので、これはもちろんracismを肯定しているわけではないはずです。

【-ism】は[主義]なので、確かに〈差別〉という言葉は「意訳」かもしれません。

ただ、やはり今の現状では、〈差別〉という言葉を使わないと伝わらないのかも、とも思ったり。

ジョンの『Imagine』のように、「countriesなんてないと想像」できたらいいのかもしれませんが。
国境の壁を壊したいのなら、まずは偏見の壁を打ち崩さなければ。


なので、実際にはそこに「違い」があってもなくても〈差別〉をしない、というところから考えていかないと、と思います。

「Black Lives Matter(ブラック・ライブズ・マター)」という言葉。
これは多くの人が言及しているように、黒人の命「だけ」が大事、ということではありません。

黒人が「黒人である」というだけで、不当な扱いを受けている現状がある。

「人種なんてない」ということがもしも共有されたなら、そのときやっと「All Lives Matter」と言える、のかもしれません。
(なぜ「All Lives Matter」ではダメなのか、ビリー・アイリッシュの言葉がわかりやすかったです)

そんなわけで、今は「違い」を強調した上で、「〈差別〉をするな」と言わなければいけない段階、なのだと思います。
【-ism】という「主義」、これに根拠があろうとなかろうと、それを理由に他者を排斥していいはずがありません。

例えば、sexismの場合。
性別による「違い」というのは、確かにあります。
問題なのは、その「違い」に〈優劣〉をつけてしまうこと。

一方が「優れ」一方が「劣っている」という考え、それこそが〈差別〉ですよね。

Wikipediaの〈差別〉の項目にも、「通常は冷遇、つまり正当な理由なく不利益を生じさせる行為」と書かれています。


ちょこっと脱線します。
金子みすゞさんの、『わたしと小鳥とすずと』という詩。

「みんなちがって、みんないい」は、誰もが知っているような有名なフレーズですよね。

でもこれ、多くの人が引用したりするものの、「間違った解釈」をしていることも多いのでは?と、あるとき思いました。

これ、実は「ちがって」の後の「、」がとても重要なんだ、と。

読点「、」がないと、「みんなちがっていい」になってしまいます。
実際、そういう風に受け取っている人も結構いるようで。
「みんな違う、当たり前じゃないか」という人がたまにいるのです。

そうではなく、できないことがあっても劣っているわけじゃない。
それぞれがステキだよね、みんな「優れた」存在なんだよ。
少し大袈裟に言い換えるなら、こんな感じでしょうか。

英訳を調べたら、「wonderful」や「special」と訳されていました。

命に、存在に、「優劣」はない。
少なくとも、一方的に「劣っている」なんてジャッジしていいわけがない。

ましてや、それによって命が脅かされるなんてこと、あってはいけない。

「ブラックミュージックはすばらしい、だから差別してはいけない」というのは、一見するといいように思うかもしれません。
けれど、これも「優劣」をジャッジしているだけに過ぎません。

「優」がなければ存在価値がない、と暗に言っているようなもの。
それは結局のところ、〈差別〉の枠から抜け出せていません。


Black Lives Matterは日本にいる人々にとっても、決して「対岸の火事ではない」と、これもすでにさまざまな方々が指摘していることです。

とは言え、やはり「日本にはそこまでの人種差別はない」と思っている人もたくさんいるように思います。
その辺のこと、詳しくはまた改めて書くつもりです。
(長くなってしまうので、またの機会に)

ざっくりと書いておくと、結局それって「いじめ」の構図に似ている氣がしています。

「見て見ぬふり」は、その問題から自分を遠ざけたくて、「なかったこと」にしたいからこそ、なのでしょう。
確かに、狭い人間関係の中だと、自分の態度を表明することはまだまだ難しいと感じるかもしれません。

けれど今は、ネットで、自分の態度を表明しやすくなりました。
もちろん、有名人に対して度を超えた誹謗中傷などがあったり、それはそれでまた考えなければいけない課題なのですけど。

6月2日火曜日、音楽業界が中心となって「Black Out Tuesday」というキャンペーンが実施されました。
「TheShowMustBePause(ショーは中断しなければならない)」というハッシュタグも広がり、大規模なストライキでした。

「黒人差別に抗議する」とともに、「ブラックコミュニティと再びつながる」ことへの表明、多くの音楽関連会社が賛同していました。

日本でも、Instagramなどでアーティストが2つのハッシュタグで参加。
ぼくも、ハッシュタグと黒い画面を投稿しました。

当然、それだけで終わらせてはいけない問題です。
でもまずは、そういうところを取っ掛かりとして、〈ジブンゴト〉として考えていけたらと思っています。

まずは些細なことからでいい、動いてみること。

アメリカのデモなどを見ていて思ったのは、動きながら軌道修正している、そんな風に感じました。
日本だと、その「第一歩」に逡巡してしまって、結局何もできない、そんなパターンが多いように思います。

その辺の大きな違いのひとつは、コンテクスト(文脈)を踏まえているかどうかなのかな、と。
どういう歴史があって、どんな背景があって、どこがどうつながっているのか。

これも今回よく耳にしたことですが、ジョージ・フロイドさんの事件は決して「単独」のものではない、ということ。

つながりを考えないということは、ものごとをより「短絡的」に捉えるということだし、それが続くと「思考停止」になってしまう。

だから、「TheShowMustBePause」はとてもいい問題提起だな、と個人的には思いました。
一度立ち止まることで、思考は停止させない。


今この国では、声を上げない、態度をはっきりとさせない、そういう人には「ゆるい特権」が与えられているような氣がします。
それは「白人の特権」ほどではないのだけど、でもやっぱり何かしらある。

そして人によっては、それを「中立」だと思っている、もしくは思い込もうとしている。

そんなものは、早いところ放棄してしまった方がいいのに。

今回のことで、アメリカはかなり「アップデート」したんじゃないか、と感じています。
(すべてが、というわけではないけど)

日本も、この機会にいろいろなことを「可視化」して、もっとよりよくしようと藻掻いてもいいんじゃないかな。
「対岸」でも、「隣の庭」でもなく、自分ごととして。

ぼくも自分なりにできることをやっていきたいと思っています。

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