阿呆浪士@新国立劇場中劇場の雑感
**2020.01.14 昼公演 **
ときは元禄、江戸時代。
江戸の長屋に暮らす魚屋の八が、拾った血判状を使って、想い人の気を引くために自分が赤穂浪士だと嘯いたことにより、何故か本物の赤穂浪士の討ち入りに参加することになってしまうコメディ作品。
だと思っていた。
色々な意味でその期待は裏切られた。作品に関しての評価は賛否が別れている印象だけれど、私はいい作品だったと思っている。
『私もしかして前世は赤穂浪士だったのか?』と思うほど、登場人物が討ち入り対して抱く気持ちや、葛藤を繰り広げる様、人生を選択していく姿に胸を打たれてしまって、1幕の終盤から人間の意思を目の当たりにしながら、いや、コメディじゃないじゃん、嘘じゃんと、心の中で泣き叫んでいた。
私は赤穂浪士のことを知らない。
正確に言うと、新撰組の羽織りは赤穂浪士の羽織りをモデルに作られたという知識から、名前だけは知っている、という存在だった。
実際の赤穂浪士の討ち入りも、その話を題材に書かれた忠臣蔵のこともあまり知らない。
だけど、その場にいる人間ひとりひとりにそれぞれの意思と生き方があって、その意思と生き方が伝わってくる瞬間はどの人物の話でも胸にグッとくる尊さがあった。
一方は長屋の町人、一方は赤穂浪士。一見すると真逆の人生を歩みそうな町人と武士が、それぞれの意思に従った結果、同じ方向を向いて討ち入りに挑む様を見て、その生き様が阿呆だけど美しかったなと思っている。
ストーリーだけを追いかけていくと、結末はとても切ないものだったけれど、合間合間に程よくコミカルなシーンもあり、重くなりすぎず、とっつきやすい時代劇だったと思う。すごく粋な作品だった。
◎阿呆浪士の雑感
1幕の終わりくらいから生きることの意味と、死ぬことの答えをずーっと考えながら見ていた。(©若葉のころ)
赤穂浪士だと嘘を付いたことにより討ち入りを決行することになってしまったけれど、頑なに「討ち入りなんてしない(怖くてできない)」と言い張っていた八が、侍に仲間をに切りつけられたことをきっかけに、いつまでも討ち入りをしない赤穂浪士たちに「そんな侍にヘコヘコ頭下げてきた俺達町人の気持ちはどうなる!!とキレて、お前らがやらないなら俺がやる!俺のほうがよっぽど侍だ!!!と啖呵を切って本当に討ち入りを決意するシーンや、物語の終盤、浅野内匠頭と交流のあった遊女の話を聞いて、揺らいでいた大石内蔵助が討ち入りを決意する瞬間がとくに印象に残っている。
自分を持たず、日々を適当に生きている私にとって、この時代の侍の生き方は潔すぎて、その眩しさがグサグサと胸に刺さった。
八は討ち入りの決意を定めたあとも、恐怖で足がすくんでしまったり、震えながら戦いに挑んだりするし、大石は討ち入りを決断するまで自分の部下の浪士たちに「侍ではなく自分がどう生きるか」を選ぶように問うたりしているのだけれど、そんな風に決めたことに対して気持ちが揺らいでしまう八や大石は、とても人間らしくて共感できた。
物語のラストは、貞四郎を除く主要登場人物の殆どが討ち入りに参加し、吉良上野介の首を取るのだけど、そのうちの大半が赤穂浪士ではなくただの町人や浪人だったことが幕府に知れてしまい、ただの暴動とみなされ切腹を命ぜられ、最後は潔く武士としてみんな浅野内匠頭と同じところへ行くというものだった。
理由はわかるし、ある程度展開の予測もついていたけれどすごく切ない展開だった。
登場人物がみんな笑顔で最期を飾るので、余計に胸が撃たれた。
教科書で読んだときよりも強烈に江戸時代の士農工商という身分の重みを痛感したし、武士として腹を切ることに対して誰も違和感を感じていないこの時代の生き方に現代人の私は全く共感ができなくて、どうしてみんなおかしいと思わないの?と本気で泣くほどには物語の世界にのめり込んでしまった。
その中で、最後に八が奥さんとお直にあてた辞世の句の阿呆ほどの正直さに少しだけ救われた。
辞世の句なんてわかんないから好きなものだけ並べた!という辞世の句の最後の最後に好きな女性の名前を2人分連ねる八は非常に粋な男だった。
◎田中貞四郎について
私はふぉ〜ゆ〜のオタクなので、福ちゃんが演じた田中貞四郎を見に行ったのだけれど、見終わったあとは正直、切なさと、若干のモヤモヤという複雑な気持ちを抱いてしまった。
貞四郎は、討ち入り賛同派のすず、黒兵衛と行動をともにする唯一の赤穂浪士だった。
だけど、吉原で出会った花魁の喜多川と恋に落ち、赤穂浪士として討ち入りをする気持ちと、喜多川と一緒になりたいという気持ちの間で葛藤する。
大石が放った件の言葉を受けて、自分としてどう生きるかを考えた貞四郎は、結局吉原を足抜けをした喜多川と共に町人として身を隠しながら生きていく決意をするのだけれど、仲間が全員討ち入りをして切腹をすることがわかった瞬間、自分も武士として死なせてくれ、と自決しようとする。
そんな貞四郎を止めようとした妻の喜多川と押し合ううちに、手に持っていた刀が腹に刺さり、「俺が一番阿呆だ!」と叫びながら息絶える。
このラストシーンは個人的には納得行かなくて、観劇後に消化不良を起こした一番のポイントだった。
その一つ前の、泉岳寺の茶屋で仲間たちが腹を切ることになった話を聞いて静かに涙する貞四郎の背中が本当にかっこよかったため、最後の最後でどんどん返しにあったような気持ちになった。というより、興ざめしてしまった。
観劇後に肯定も否定も含めて色々な意見と感想を読んだのだけれど、とある方がブログで「貞四郎には数年後、長屋の畳の上で寝転がりながらこれが俺の阿呆だよと言ってほしかった」とおっしゃっていて、この感想が私の一番の望んだラストだったなと感じた。
八と貞四郎、どっちも阿呆だけど、阿呆のジャンルが違うと感じた。
個人的にはハの明朗快活な阿呆さのほうが好きだった。
貞四郎の阿呆は阿呆というか、ただのかっこ悪い男というかなんというか、端的に言うとずるいと思った。私が喜多川だったらきっと一生許さない。
自分の意志に素直にしたがった八は、好きな女性2人の心も、侍としての志も、町人としての粋さも、全部手に入れることができたけど、志を捨てきれずに中途半端な気持ちで喜多川を選んでしまった貞四郎は、最終的に侍としての志も、貫こうとした愛も守れずに一人で死んでしまった。
吉原から足抜けするときに、喜多川が貞四郎に言った「自分の気持ちに正直に生きるのは辛い、嘘をついたほうがよっぽどマシ」という言葉は、そういう意味なのかなと思った。
結局、貞四郎の正直な気持ちは赤穂浪士として討ち入りをすることだった。その気持ちに嘘をついて喜多川と生きることを選んだから最終的に正直に生きようとしたときに叶わず、辛い結末をむかえることになった、みたいな……。
私は福田さんの演技を見ていて貞四郎の喜多川への愛が嘘だったとは思っていないけれど、あのラストを見る限り作り手的にはそういうことが言いたかったのではないかと思っている。
ただ、どうにも救いようのない阿呆だった貞四郎はこの阿呆浪士という作品の中ではものすごく美味しい立ち位置だったのではないかとも思っていて、賛否両論別れたラストになってるのも全部計算なんじゃないかとさえ思えてきて、もし本当にそういう意図であのシーンが描かれていたのだとしたら手のひらで転がされている感じがあり、してやられた気持ちである。
脚本家や演出家に、どういう意図があったのか詳しく聞かせていただきたい。
ただ、福ちゃん演じる貞四郎は非常に顔がよく、脚も長く、スタイルが良かった。
真面目で一本気で堅物で、ちょっと不器用な貞四郎の性格も好感が持てた。
私は阿呆浪士の田中貞四郎が好きだ。
◎福田さんについて
顔もいいしスタイルもいいし和装も似合うのだけれど、なにより芝居がうまかった。
観客の笑いを誘うコミカルな演技も、心象の揺れを表す繊細な演技も、思わず息を呑んでしまうような真面目な演技もできる、すごい役者だと思う。
最近見た福ちゃんの芝居が、放課後の厨房男子と、ENTA!2のコントだったので、この作品でしっかり真面目な青年の役をしている福田さんを見て、こういうところがずるいんだよ〜いっぱい好き〜!!!と偏差値3くらいの気持ちを抱いてしまった。
というか、個人的には福ちゃんの単独出演舞台を見るのも初めてだった。
4人でいるときとは全く違うアプローチだった。別人を見ているのかと疑ってしまうほどだった。新鮮な気持ちになった。
とくに好きだったシーンは、討ち入りに参加することになったスカピンに、協力してくれないかと頼まれたときのシーン。
慣れないかぼちゃ売り業務に四苦八苦し、武士という身分を捨て、侍としてのプライドを捨て、町人の下で働く貞四郎にお前はそれでいいのか、とスカピンが問いかけたシーンである。
スカピンにさんざん煽られて、バカにされたのに、それでも自分が一人の人間として選んだ喜多川との人生を、思うことはあれど全うしようと前向きに捉えている貞四郎の姿がすごく印象的だった。
わからないふり、気づかないふり、阿呆なふりをする貞四郎の、はぁ〜い!という間抜けな返事が私はすごく好きだった。
そんな貞四郎がかっこよかった。
悔しさを飲み込んでバカなふりをする。ふぉ〜ゆ〜にも重なる部分も見えて、バカなフリならいつでもするよ、というScandalousの歌詞が頭をよぎってちょっと泣けた。
その少し前まで仏頂面のまま客席にかぼちゃを売りつけようとして笑いを取っていた人間と同じ人間とは思えないほどの振り幅。笑えるシーンのあとに真剣な演技で人の気持ちを揺らす福田悠太さんの芝居はすごい。芝居がうまい本当に。
前述した泉岳寺の茶屋で涙するシーンの、セリフがなくても人を泣かせる芝居ができるところもすごく好きだった。
とにかく私はこの人の芝居が好きだと確信してきた。
また、1幕の大石の心中吐露シーンのあと、大石と黒兵衛と貞四郎の3人で甘納豆(確か)を食べるのだけど、それに赤穂の塩が使われていることに気づくというシーンの貞四郎も好きだった。
というより、赤穂浪士3人で並んで故郷の赤穂に思いを馳せる光景にじわりと来てしまった。
みんな浅野内匠頭のことを信頼していたし、慕っていたし、好きだったのだろうなと思ったし、赤穂に誇りを持っていることが伝わって、武士の忠誠心の真っ直ぐさがあまりに清かった。
◎まとめ
応援ペンラとうちわの持ち込み可という話を聞いて、すっかり2.5次元ミュージカルのイメージを持っていったのだけれど、蓋を開けてみれば2.5次元の要素はあまりなかった。
歌と踊りの演出が必要だったのかについては、新しいジャンルの演劇という位置づけで処理している。個人的に特に違和感はなかった。
ふぉ〜ゆ〜のオタクとしては貞四郎がラストナンバーで楽しそうにふにゃふにゃ笑って阿呆阿呆♫と歌い踊る姿を見ることができて救われた気持ちになったので、あの演出は必要だったと思っている。
この列はふぉ〜ゆ〜のFCの枠の列かなと思っていったのに、蓋を開けてみたらマジカルLOVEスティックに両隣を挟まれてしまい、私もパルファムで来るべきだったのか…と思った。
時代劇と、ペンライトという意外な組み合わせがまた斬新的で、個人的には面白かった。
というより、私はかねてからもっと大笑いしたり感想を言いながらふぉ〜ゆ〜の舞台を見てみたいという気持ちがあり、いつか応援ライブビューイングを実施してくれないかなと思っているので、こういうニュータイプの演劇が生まれることは嬉しいのである。もちろんTPOは大事だけれど。
またペンライトを振ったりうちわを振ったりする舞台に行ってみたいなという気持ちになった。
と、このように色々書いているけれど、冒頭にも言ったように、私はこの作品が好きだった。
阿呆な男たちが自分の人生を生きた話で、その生き方が粋だと思った。
貞四郎の生き方はかっこわるかったけど、それでも人間の生き方らしくて嫌いではなかった。
討ち入りに行った人、行かなかった人、どちらにもその人の生き方があった。それが人間だなと納得できた。
討ち入りに行って人の気持ちも、行かなかった人の気持ちもわかると言える、第三者として観劇できたことは楽しかった。そう考えると赤穂浪士に関する知識がない状態で見に行ったことは正解だったのかもしれないと思った。赤穂浪士に肩入れしすぎない立ち位置で見ることができてよかったと思う。
1度の観劇では足りず、もう少し細かく見たいところもたくさんあったのだけれど、驚くほど時間とタイミングが合わず、1度しか観劇できなかったことが悔やまれる。
機会があればまた見たい作品である。再演するといいな。
蛇足だけど、赤穂浪士の血判状を手に入れたあとに、想い人の気を引くために軽い気持ちで赤穂浪士と嘘をついた八が、自分は本当は赤穂浪士ではないことをカムアウトするタイミングを逃しまくっているときに、嘘をつき続けるには嘘に嘘を重ねなきゃみたいなセリフがあったと思うのだけれど、このセリフを聞いたとき、先日観劇した舞台、罪のない嘘がふと頭を過ぎっていった。
2020.2.2 大千秋楽に乾杯。素敵な時間をありがとう。