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アガサ・クリスティー/中村妙子・訳『暗い抱擁 The Rose and the Yew Tree』(1947)再読感想

アガサ・クリスティー/中村妙子・訳『暗い抱擁』早川書房, 1974


あらすじ

現代の聖人・クレメントおやじ、本名をジョン・ゲイブリエルと言う。
ひょんなことからヒューは、ゲイブリエルと再会する。
これは、ヒュー・ノリーズが回想する、聖人と呼ばれる前のジョン・ゲイブリエルと過ごした日々の記録である。物語は、再会したゲイブリエルが、最後に発したひとことへ向けて進んでいく。

交通事故で半身不随になったヒューは、兄夫婦とコーンワルにあるセント・ルーへ越してきた。
姉・テレサの影響もあり、地元の女性・イザベラや周囲の人たちと交流を深めていくヒュー。
選挙の時期、地元の保守党からは、ゲイブリエルというおよそ保守党候補には似つかわしくない、粗野な男が候補者として選ばれた。
様々な人の思惑を伴って、選挙戦は進んでいく。


本の紹介と感想(殆どヒューについて語ってます)

メアリ・ウェストマコット名義四作目にして、個人的にウェストマコットで一番好きな話を久しぶりに再読しました。


再読する時々で注目する場所は変わりますが、今回は今まで以上にヒューという人物に注目しながら読んでました。

今までは物語の主題の中心にいるゲイブリエルやイザベラを中心に、テレサの安心感などに浸りながら読む事が多かったのですが、今回はヒューという人物が持つ冷静さと、虚無感や空虚感とも違う人生との距離感を感じながら読み進めました。

これは、ジェニファーとの顛末や、交通事故により歩行の自由を失ったことも関係があるのだと思います。

テレサに「あなたは本当に人間を見たことがあって?」と言われるヒュー。この物語の中で、もっとも自分に似てるのはヒューなのではないかと勝手に思い込み、自然と語り手以上の中心人物として読んでいました。

自分の本当の姿、他人の本当の姿なんてわかるのだろうか。
どこまで行っても本当に理解することはできないし、理解できない中で、それぞれが自分勝手な考えのもとに人を見て、人とうまくやったり、破綻したりしている。
その中でもセント・ルーに生きている時代のヒューは、人とうまくやりながらも、本当のところ他者に本当に興味を持っていなかったのだと思います。

ヒュー自身は、ジェニファーとの事を考えて「本当の姿を見ていなかった」と振り返っていますが、本質的には今も「本当の姿を見ようとしない」のは変わりないのです。
ただ、ヒューには一定程度の洞察力があるため、興味が無くても、本当の姿を見なくても、ある程度は正解を引き出すことができているのだと思います。

この、テレサほど達観できず、ミリーやゲイブリエルのように自分の感情や気持ちに振り回されず。人に興味がない訳ではないが、その本質を見るために足掻こうとはしない。中途半端が故に語り手として成り立つ存在。

もちろん、ヒューの人格や生き方が良いとか悪いという話ではなく、ただそういうものであるということです。
現在パートの暮らしを見るに、彼は彼自身の求めるもの・手に入るものを理解して、彼なりに満足いく暮らしをしているように感じました。

自分が、まったく同じだとは思いませんが、それでも、どことなくヒューが一番自分を重ねやすい。それが今の自分なんだと感じました。

もちろん、自尊心と劣等感の塊であるがゆえに行動力の化身でもあるゲイブリエルや、ヒューが最後に気にしていたように今までの人生が気になるテレサ、出番は少ないけど精神的な安定を提供してくれるロバートなど、セント・ルーの他の住人達もみんな大好きです。

読む度に色々と考えたくなるセリフや考えのオンパレードで眩暈を感じながらの読了となりました。
また数年後にするだろう再読も楽しみです。

(2023年9月1日読了)

印象に残った言葉

本作には、読了後も自分の中に残る言葉がたくさんあります。
自分用のメモとして、その一部(と言うには多いですが)を残しておきます。

「でも――あたし――たぶん、馬鹿だからよくわからないんでしょうけど――人間って、何かしら希望をもって生きていかなくちゃいけないものなのかしら? ただ生きているだけじゃ、なぜ、いけないんでしょう?」

アガサ・クリスティー/中村妙子・訳『暗い抱擁』早川書房, 1974, p. 94, イザベラの疑問

「二人は実際にはまったく違う目で対象を見ているのだ。たぶん――そうだな――人間て奴はあらゆるものの中から自分にとって意味をもっているものだけを引き出すってことだろうね」

アガサ・クリスティー/中村妙子・訳『暗い抱擁』早川書房, 1974,
p.141, 人間の真相についての会話の中で、ヒューの義兄・ロバートの言葉

「私たちはみんな、本当の意味の単純さを失ってすでに久しいから、そういうものに出会うと困惑するのよ。でもね、何かを感じる方が、それを考えるより、いつだって、ずっとやさしいし――楽だわ。ただ近ごろのように文明が進んで生活が複雑になってくると、感情そのものも正解とはいかないのね。(中略)
 幸せを感じる、腹を立てる、誰かが――あるいは何かが好きになる、もしくは嫌いになる。悲しみに沈む。あなたや私のような人間はね、ヒュー、自分の感じたことについて沈思し、分析し、思いめぐらすわ。どんなふうに感じたか検討し、理屈をつけるでしょう。『これこれの理由で私は幸せを感ずるのだ』とか、『こういうわけで私はあの人が好きなのだ』とか、『こんなに憂鬱な気分なのは、これこれのことがあったからだ』とかね。ただ、そうした理由はしばしば間違っていることがあるわ。人間って、故意に自己欺瞞に陥るんでしょうか。」

アガサ・クリスティー/中村妙子・訳『暗い抱擁』早川書房, 1974,
p. 141-142, 人間の真相についての会話の中で、姉・テレサの言葉

「だって誰かを愛したら、何よりもその人を幸せにしてあげたいって、そう思うものじゃありません?」
「それも一種の自己陶酔です。そのもっとも隠微な形といいましょうかね。かなり一般化してもいます。しかし統計学上から見た場合、それこそ何にもまさって結婚生活を不幸にしているものじゃないでしょうか」

アガサ・クリスティー/中村妙子・訳『暗い抱擁』早川書房, 1974, p.154, ミリーとヒューの会話

 今ではジェニファーのことを考えても、これという苦痛はなかった。かつて私の知っていたジェニファーは、はじめから実在していなかたったのだ。自分の好みに合わせて、私が彼女を創造したのである。本当のジェニファーがどんな女かということなど、考えたことがなかった。二人の間には、ジェニファーを恋いこがれている私が立ちふさがっていたのだ。
 大きな階段を一段一段おぼつかなくおりて行く子どものように、私は追憶にふけっていた。「ヒュー坊やが今おりて行くよ」と偉そうに叫ぶ子どもらしい声がかすかに耳もとに響くようだった。少し大きくなると、子どもは「私」とか「ぼく」と、一人称で語ることを学ぶ。しかし、その心の内奥には依然として、「私」の浸透していない部分があるのだ。彼は「私」ではなく、あくまでも一人の傍観者に終始する。一続きの絵の中の人物のように自分を見る。私はジェニファーを慰めているヒューを、彼女のすべてであるヒューを、ジェニファーを幸せにするつもりでいる彼を、これまでの彼女の不幸をすべて埋め合わせようとしているヒューを見ていたのだった。

アガサ・クリスティー/中村妙子・訳『暗い抱擁』早川書房, 1974,
p. 182-183, ジェニファーのことを考えているヒューの述懐

「『私は馬鹿なことをした』と認めて笑いとばし、さっぱりと次のことに取りかかるのは本当に強い性格の人にしかできないことよ。気の弱い者は何か支えになるものがなくちゃいられないのよ。自分のおかした過ちを真剣に立ち向うべき失敗としてでなく、どうにもならない欠点として、罪悪として見ずにいられないんでしょうね。」
「私は悪自体っていうものがあるとは思わないの。この世界の不幸は弱者が招くのよ。悪気はないんだし――ロマンスの主人公を気取っているだけだけれど。でも私は弱者を恐れるわ。危険だからよ。弱者はね、暗闇の海を漂流して堅牢な船に衝突して沈没させる老朽船のようなものよ」

アガサ・クリスティー/中村妙子・訳『暗い抱擁』早川書房, 1974,
p.242-243, 失敗に立ち向かう姿勢についてテレサの考え

私はもう一つのことを思い出した。ルパート・セント・ルーの命名式には意地の悪い妖精は一人も出席しなかったろうという兄ロバートの言葉を。後でその意味を訪ねるとロバートはいった。「意地悪の妖精が一人もいなくっちゃ、物語にもならないじゃないか」と。おそらくそれがルパート・セント・ルーを現実離れしたものに感じさせたのであろう。その美貌、知性、誰の目にも明らかな廉直さに拘わらず。

アガサ・クリスティー/中村妙子・訳『暗い抱擁』早川書房, 1974,
p.250, ルパートに対するヒューの印象

「本当の苦しみってものがどんなものか、きみにはぜんぜんわかっていない。これまでおれは——一遍だって——イザベラが何を考えているか、見当もつかなかったんだ。まともに話をすることもできなかった。おれは彼女の魂を砕きたいとあらゆることを試みた(中略)だが彼女はおそらくおれがそんなことをしていることさえ、気づかなかったに違いない。」
「彼女をはじめて見たときからおれは地獄の責苦を味わってきたんだ。あの姿をちらっと見ただけでどんなに苦しかったか、とても説明はできないよ。自分でも今もって不可解だ。(中略)おれがこれまで欲したもの、心にかけたもののすべてが彼女に結晶しているかのように。おれは自分が粗野な、汚らしい、情欲に支配されやすい男だということを知っている——だが彼女に会うまでは、そんな自分を何とも思わなかったんだ。
 彼女こそ、おれを傷つけたんだよ、ノリーズ。(中略)何物も与えたことがないほどの痛みを与えた。おれはその彼女を破壊しなければいられなかった——自分と同じ所まで引きずりおろさずにはどうにも腹が癒えなかった。」

アガサ・クリスティー/中村妙子・訳『暗い抱擁』早川書房, 1974,
p.280-281, イザベラについてゲイブリエルが抱いている気持ち

「サセックスの友人に聞いた所では、近くに住む自作農の男と親しくなって結婚することになっているとか。評判の悪い男で、酒も飲むそうですわ。ちょっと手も早いとか」
 するとミリー・バートはまたしても同じパターンを繰り返しているわけだ……
 もう一度機会を与えられて、それによって利益する人間なんているものだろうか?

アガサ・クリスティー/中村妙子・訳『暗い抱擁』早川書房, 1974,
p.284, ミリーの現在を聞いて感じたヒューの述懐

「時なんて、何の意味もないわ。たったの五分だって一千年だって、意味深いことでは同じよ。ほら、『薔薇のたまゆらも、いちいのそれも……』って詩にもあるじゃありませんか」

アガサ・クリスティー/中村妙子・訳『暗い抱擁』早川書房, 1974,
p. 285, イザベラの死について口惜しむヒューに対して、テレサがかけた言葉

「あなたは人生に対して自分のデザインを設定して、ほかの人の人生をその中にいれこもうとするたちね。でもその人その人のデザインというものがあるのよ。だからこそ、人生は単純じゃないんだわ。そうしたデザインが絡み合い、重なり合っているから。
 自分自身のデザインを見きわめる目をもって生れた人はごく僅かだわ。イザベラはそうした少数の人々の一人だったんじゃないかしら。あの人を私たちが理解できなかったのはあの人が複雑だからではなくて、単純だから――恐ろしいほど、単純だったからよ。本質的なものしか、目にはいらなかったんですものね。」

アガサ・クリスティー/中村妙子・訳『暗い抱擁』早川書房, 1974,
p.285-286, ヒューに語ったテレサのイザベラ評

「あなたは知らないのよ。あの人をよく見たこともないんじゃなくて? いったい、あなたは本当に人間を見たことがあって?」
 そういわれて考えてみると、そういうテレサすら、つくづく眺めたことがないのに私は気づいた。

アガサ・クリスティー/中村妙子・訳『暗い抱擁』早川書房, 1974,
p. 287, テレサがヒューにかけた言葉と、ヒューの反応


メアリ・ウェストマコット名義・作品リスト

01『愛の旋律 Giant's Bread』(1930)
02『未完の肖像 Unfinished Portrait』(1934)
03『春にして君を離れ Absent in the Spring』(1944)
04『暗い抱擁 The Rose and the Yew Tree』(1947)
05『娘は娘 A Daughter's a Daughter』(1952)
06『愛の重さ The Burden』(1956)

恋愛だけに限らない、様々な愛の形が描かれています。
他者への愛だけでなく、自己受容や自己理解について主人公が模索する様子も多く描かれています。

どの物語も、クリスティーらしい読みやすい文体(中村妙子さんの翻訳も良いです)と、ミステリー作家として鍛えたストーリーテーリングが生かされています。
後期の作品では、主人公を見守ったり導く存在が設定されていることが多く、その言葉が心に残ります。

「人間理解」を中心として、扱うテーマは深いですが、小説としては読みやすく、全てオススメの作品です。


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