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●Dr.Holiday Laboratory 『想像の犠牲』(2024)
・観ている間に何を感じていたのかを書くことはむずかしい。
・この演出家は一体何にいらだっているのだろうか。そのいらだちはぼくにもすごく身に覚えのあるいつも感じているもののようにも思えるし何にもまったくわかってなんかいなかった!と愕然とする思いもした。
黒沢清と青山真治のある一時期の作品群に共通するあの「いらだち」のことも同時に思い浮かべていた。黒沢清なら『CURE』(1997)〜『トウキョウソナタ』(2008)、青山真治なら『helpless』(1996)〜『サッド ヴァケイション』(2007)に等しく貫いているもの、当人たちにも他の誰にも今では絶対なしようのないあの感じは「時代」に要請されているものだったのか何なのか。この演出家もこれらの映画監督も一体何に切迫されたものを感じていたのか。
・「物自体」ならぬ「演劇自体」。「演劇」を条件づけている演劇の骨組みをごろんとそのまま転がしている。人間には感じることのできない「物自体」(=「演劇自体」)を無理矢理感じさせられているような。
・おはぎを食べたり塗られたりチキンを食べたりその骨をなんかしたりして動物になる。動物になる訓練をしている。
・最近の文学やら短歌やらエッセイやら日記やらSNSやら人のしゃべりかたやら振る舞いやら思考回路やらなんやらかんやらなんでもかんでもが「お笑い」というか「大喜利」みたいになってきていてだれもかれもが「お客様」であることが当然と思っている今の状況にイライラしている私ですがそういうものから最も遠ざかっているといえる「物」だった。それはやっぱりものすごくつかれる。ありがとう。
●『朝の火』 広田智大(2024)
・『想像の犠牲』を観た次の日にみた。ふたつはつながっていると思った。それはニーチェであり、『サクリファイス』である。
・二人の男がいる。一人の女がいる。それらはどうやら複数の時間・空間にも同時にいるようだ。それらは同じ人物のようになされているが、どうもなにかがふつうのようにはつながっていないようだ。
・一つのショットがあり、また別の一つのショットがある。これらをつなげて一つのシークエンスをつくる。この時間はつながっているがつながっていない。映画とは、つながっていないものをつながっているもののように感じさせるものだ、といえるだろうか。
・と言いながら実はこの作品は事前に一度みていて、映画館でこの日二度目をみたのだが、そこらへんの構造をやっとわかった。見る側にある種の「構え」が必要なのだと思う。『想像の犠牲』を観た次の日で「回路」が開かれている感覚もあった。観客が試されている。
・最後に『春をかさねて』『あなたの瞳に話せたら』 佐藤そのみ(2019)
この2作品ともすばらしいもので、どちらにもニーチェを感じたのだがうまくまとめられない。
アフタートークで監督が、震災直後の自分のことが好きだった、いろんなものごとを観察していろんなことを考えていたしなにより真剣に生きていた、と話していたその言葉にも貫かれた。