死は生活のすぐそばに
5月26日
祖母が亡くなった。母方の祖母、90歳。これで祖父母四人全員が亡くなってしまった。
最初に連絡が来たのは前日の夜。祖母は去年から老人ホームに入所していて、特に体調が悪いという話もなかったので突然のことだった。その夜はなんとか持ち直したものの、翌日の午後に家族が集まるなか亡くなった。
私はその場にいなかったのだけど、母によると、眠ったまま気づいたら脈が亡くなっていて、「え、脈なくない?」という感じだったらしい。理想的な最期すぎる。
父の運転で妹と共に老人ホームへ向かった。すでに叔父と叔母、従弟たちがいたけれど、誰も泣いたりしておらず、いたって普通だった。
祖母は本当に眠っているようで、髪も黒々としている。染めてもらったばかりだったらしい。
部屋の窓が開いていて、その向こうには田植えを終えたばかりの田んぼが見える。この時期の田んぼは水面に光が反射して一番きらきらしている。寂しさや悲しさは不思議なほど感じなかった。
5月27日
通院の予定があったので、そのあと、まっすぐ祖母の家へ。
久しぶりに訪れた祖母の家は畳が張り替えられていて、イグサのいいにおいがした。もう祖母の家というより叔父夫婦の家なんだな、と思った。
祖母にお線香を一本そなえて手を合わせる。部屋は冷房が効いていてかなり寒い。昨日まで祖母は生きていたのに、部屋を寒いくらいにしておかないと傷んでしまうものになってしまったのだな、と思うと少し切なくなる。冷たくなっているであろう祖母に触れる勇気はなかった。
親戚の方々も来てくださっていた。が、母方の親戚はまったくと言っていいほどわからない。
会う機会が少ないというのもあるが、まず祖母は同じ苗字の祖父と結婚したため、祖父方も祖母方も同じ苗字で区別がつかない。しかも祖母は8人兄弟、祖父は4人兄弟なのでシンプルに親戚の数が多い。なかには祖母の兄弟と祖父の兄妹とで結婚している人もいるらしくて、もう私には何が何だかわからない。母方の親戚のことは従弟たちに任せるつもりで、もう把握することをあきらめている。
5月28日
納棺。祖父の納棺のときにも思ったけど、納棺師さんが遺体に着物を着せてゆく様子は手際が良く、マジックのようで、頭のなかでマジックのBGMとしてお馴染みの「オリーブの首飾り」がチャラララララ~と流れ出す。
湿らせた布を渡されて手足を拭いてあげるように言われたけど、祖母が冷たくなっているのを感じるのはやっぱり怖くて、直接触れることはできなかった。
納棺師さんが祖母に化粧をしていく。生前の印象通りになっているかどうかを聞かれるのだけど、まったく生前の面影は感じられない。というのも、亡くなる直前に髪を染めたとき、髪もかなり短めに切られてしまっていて、そのせいでかなり印象が違う。納棺師さんも「髪はさすがにどうにも……」という感じ。
顔もちょっと若く見えて別人のようだったので、せめてもの調整で口に入れた綿を取り除いてもらうと、祖母は少し祖母っぽさを取り戻した。それでも、今後町なかでこの人とすれ違っても祖母だとは気づけないかもな、と思った。ぜったいにそんなことはあり得ないのだけど。
6月1日
葬儀の日。さわやかによく晴れていて、暑すぎず寒くもなく、本当に年に数回しかないようないい天気だ。お出かけしたい気持ちが沸いてきそうになるので、それを抑えこむように「お葬式日和だね」と言ってみる。
一日で告別式と初七日法要が続けて行われる。うちの宗派は天台宗なのだけど、母方の宗派は時宗で、時宗のお経は「南無阿弥陀仏」を何回も何回も繰り返すのが特徴なのかなと思う(仏教にあまり興味がないのでわからないけど)。何回「南無阿弥陀仏」を繰り返して言うのかな? と思い、数えてみると、9回のときと10回のときがあった。
そんなことをしている間にも葬儀は進行し、棺に花を入れるセレモニー的な時間がやってきた。何度か葬儀を経験して分かったのは、この時間が一番泣く時間だということ。このために手を拭くのとは別に涙用のハンカチを準備してきた。
みんなで泣きながら祖母の回りへと花を入れていく。泣ける。ハンカチで涙だけでなく鼻水も拭いた。
母が祖母の顔を撫でながら「おかあさんありがとう」と言っていて、母が祖母のことを「おかあさん」と呼ぶのは初めて聞いたな、と思い、私の涙はそこで落ち着いた。母にとって何十年ぶりに呼ぶ「おかあさん」だったのだろうか。22歳で結婚して実家を出た母。認知症で誰のこともわからなくなったけど、面会のとき母に「娘みたい」と言っていた祖母。きっと私の知らない母娘の物語があるのだろう。
各々の車で火葬場に移動し、食事をして、収骨をする。
私は12歳ごろに祖父の死をきっかけに不安障害を発症したこともあり、「死」が苦手で、死を強烈に感じる収骨には特に苦手意識があった。なんといっても見た目のインパクトがある。さっきまで人だったのに骨になっちゃうんだもの。そのため、今までは葬儀に参列しても収骨には参加してこなかった。
しかし、私ももう大人だ。身内の葬儀も何度か経験し、犬も2匹看取った。死に対して免疫ができてきた今なら、収骨もできる気がする。そう思って25年ぶりの収骨に挑んだ。
祖母の骨は思ったより人っぽさを感じなかった。骨、ではあるのだけど、白い骨がまとめて置かれているな、くらいの感じ。「おばあちゃん、骨になっちゃって……」という気持ちはなかった。自分でもびっくりするくらい冷静に受け止められた。25年という月日は、私をずいぶんと成長させたようだ。そりゃあそうだよね、長いもんね、25年。小学生だったのに、今じゃ白髪もちらほら生えてきてるよ、悲しいねぇ。
25年前の収骨の記憶は薄れているので、粉末状の遺骨を小さめのほうきとちりとりのようなもので集めることに驚いた。それが一番効率的なのだろうけど、死後は焼かれて骨となりゴミと同じようにかき集められるのだな、と思ってしまう。今後、ほうきを使うときには収骨のことを思い出してしまいそうだ。
火葬場のすぐ隣に野球用のグラウンドがあり、そこでちょうど少年野球の大会が開催されていた。初夏の晴天の土曜日に野球をしている少年たちは生命力に満ち溢れている。火葬場という場所との対比がすさまじい。私は常々、死は生活のすぐそばにあるものだと思ってきたのだけど、それを可視化したらこんな感じなのか……と思いながら家路についた。