日記に短歌 2024.11.12~11.15
11.12
今日は母と肩こりの話ばかりしている。私の肩は母親似なのだと思う。
最近は気温が下がってきているせいか、無意識に肩に力が入ってるようで肩こりが悪化している。
少しでも楽になりたくてプランクをやることにした。
プランクは元々筋肉をつけたくて始めたのだけど、今はどちらかというと肩こりのためにやっている。一時的とはいえ、肩回りがすっきりとほぐれる感覚を得られるのだ。
腕立て伏せのような体勢で三十秒間キープするのを三回繰り返す。久しぶりなので自分の重みで腕がぷるぷると震える。
一時期、週に3、4回はプランク(とスクワット)をやっていたのに、ここのところは全然やれていなかった。習慣でなくなってしまったものを再開させるには膨大なエネルギーがいる。
つらくてもとにかく続けること、やれそうなことだけでもいいからやり続けることが大事なのだと田中みな実が雑誌のインタビューで答えていた。本当に田中みな実の言うとおりだよ。
プランクのあとは肩まわりがぼわーっとした感覚になり、肩を動かすと軽くなったのが分かる。詳しくはわからないけど、滞っていた何かが動き出したのだろう。
この瞬間がうれしい。自分の体を自分でいい状態にできた喜び! 体調は自分次第で変えていけると思うと希望を感じる。健康を左右するのは自分自身なのだ。
プランクで自分の重み支えれば死なずにこれたこと褒めたいよ
11.12
彼氏と新宿へ行った。紀伊國屋書店での買い物が目的だけど、夕方だったので夕飯を新宿で食べてゆくことにした。
1~2年前に新宿で映画を見た際に一緒に行ったパスタ屋さんがおいしかったのでまた行こうということになったのだけど、お店の名前を二人とも覚えておらず、彼が調べてみてもそれらしきお店の情報は出てこなかったらしい。
覚えているのは地下にあったお店ということぐらい。実在しないのかもね、幻の店だったのかもね、などと言いながら映画館の辺りをきょろきょろ見ながら歩く。
普通に閉店してしまったのかもしれないし、パラレルワールドのパスタ屋さんだったのかもしれない。新宿という雑多な街ではそんなことも起こりうるのではないか。
おいしかったけど二度と行けない、実在していなかったお店……。頭の中で「世にも奇妙な物語」のテーマが流れ出し、タモリさんが登場した。ゾクゾクしちゃうねぇ。
しかし、そんなゾクゾクはあっけなく終わる。「あっ!」と彼が言うので、まさかと思うと目の前にパスタ屋さんがあり、見覚えのある地下へと続く階段が……。
お店は実在していたし、意外とあっさり見つかってしまった。ちぇっ!
世にも奇妙な出来事はそうそう日常では起こらないようで、頭の中のタモリさんも帰ってしまった。
ちょっと残念な気もしたけど、パスタは今回もおいしかった。
トイレへと入った人がウェイターの服で出てくる十八時前
11.14
デートの翌日は疲れているので一日家で過ごすと決めている。
のんびりしたいけど居間で父がテレビを見ていて、相変わらず音量が大きいのでHSP気質の私にとってはつらい。
父は毎日午前中は情報番組を見ている。今日は元フィギュアスケーターの女性が初めての一人暮らしの部屋を探す企画をやっていて、この女性が「自立したいです」と話す映像が繰り返し流れていた。
自立。最近の私のキーワードかもしれない。先日、Xで「自立していないのは人としてダメだ」というような投稿が流れてきて、自立できていない私は悲しくて悔しくて泣いてしまった。
それ以降、自立についてよく考えている。自立していない人間の言い訳と思われてしまうかもしれないけど、やっぱり人それぞれに事情があると思う。
私の場合は子どものころから患っている不安障害が一番の理由だ。この病気があったせいで学校にも通えず社会に出ることもできなかった。今は一時期より良くなってできることも増えたけれど、心身の状態を考えると働くことは難しい。
病気や障害があっても働いて自立している方はたくさんいるのに……という考えもあるとは思うけど、病気も障害も症状の出方や度合いは本当にひとりひとり違う。病院の待合室でもそう感じるし、以前働いていた作業所でもみんなそれぞれ抱えている問題は異なっていた。
それを考えると、働ける人もいるけど働けない人もいて当たり前だと感じる。
もちろん病気に限らず、誰もが同じ条件では生きていないことをもっと想像してほしい。
自立している人は立派だと思うけど、だからといって自立していない人がダメっていうのは違うんじゃないのかな。がんばってないわけじゃなくて、がんばれない人もいるのだから。
父が出かけるためにテレビを消した。一気に家の中が静かになる。私はやっと自由に呼吸ができるような気がして、ふーっとひとつ息を吐いた。
できることが少ない私 お手してもしなくても愛されている犬
11.15
留守番中に「こんにちは~」と声がしたので玄関を開けると、近所のおばさんが申し訳なさそうに立っていた。このおばさんはいつも申し訳なさそうにやってきて、「もらいものだけど一人じゃ食べきれないから、よかったら食べてください……」と食べ物をくれる。
案の定、今日も「これ、よかったら……」とビニール袋いっぱいの何かを差し出してくれている。
それは銀杏だった。とんでもなく大量の銀杏。百個はあるんじゃないか。
普段我が家では銀杏を食べることはない。せいぜい茶碗蒸しに入っていたやつを食べる程度だ。
どうやって食べるのかもわからない、好きでもないものを大量にもらっても困るけれど、人がくださるものを受け取るというのはある種のボランティアだ。受け取ることに意味がある。
「ありがとうございまず~」と言ってずっしりと重みを感じるほどの銀杏を受け取った。
数時間後、帰宅した母に銀杏をもらったと報告すると、母も「え~、こんなに?」と驚いている。
受け取ることに意味があるとはいえ、できるだけ無駄にはしたくない。
伯母に連絡したところもらってくれるというので、半分は伯母の家へお裾分けすることになった。
どう手をつければいいのかわからないので、とりあえず「ぎんなん 食べ方」で検索してみる。
すると、銀杏には毒性があるから大量に食べないようにと書いてあるではないか! こわい食べ物だったのか、銀杏。そんなものを一人暮らしのおばさんに大量にあげた人って、それはもう嫌がらせなんじゃないの。
いくつかのウェブサイトによると、銀杏は紙袋や封筒に入れ、レンジで加熱して皮と薄皮をむいて食べるらしい。さっそくやってみると弾ける音がする。
皮を割るにはキッチンバサミのナッツクラッカーを使うといいと書いてある。ハサミの持ち手辺りにあるギザギザの部分、ナッツクラッカーっていうのか! ナッツを割るための機能だったのね!
私は銀杏をもらわなければ、一生あのギザギザ部分が何のためにあるのか知らずに過ごしていただろう。しかし、今はもう知っている! ひょんなことから人生は変化してゆくのだ。
結局、嘔吐恐怖症の私は「毒性がある」という情報にビビってしまい食べる気になれなかったのだが、母はひとつ食べ、「おいしいってもんじゃないな。一個で十分」と言っていた。まぁ、そうだろうね。
まだまだ大量に残っている銀杏。きっと今後も買って食べることはない。
好きでもない銀杏をたくさんもらう人間界はそういうところ