「サザン in the car」2014年 8月頃
野々村竜太郎氏が号泣し、すき家のワンオペが今更問題になっていた夏、僕らは車で阿蘇の先輩の家に向かっていた。
車内には僕も含め20代から30代初めの独身男性が四名。
いずれも同じ大学の文化系サークル出身者だ。
話題は最近あったことや思い出話、基本的に男だけなのでバカな話に花を咲かせていて、わいわいと熊本市方面から車を走らせていた。
渋滞情報や天気予報を聞くため、カーラジオはオンになっていたが誰もあまり意識していなかった。
そんなとき、カーラジオからある曲が流れる。
サザンオールスターズの『希望の轍』だ。
初めて聞く曲だった。
僕と同じようにこの歌を知らない人もいるだろうから、サザン公式動画のリンクを貼っておくのでとりあえず再生してみて欲しい。
カーラジオから流れる『希望の轍』。
透き通るようなピアノサウンド。
車の窓から見える青い空と入道雲。
桑田佳祐のあの独特な歌声。
皆が大学時代を過ごした熊本を走る車と通り過ぎていく風景。
僕はこの瞬間、とても恥ずかしくてたまらなくなった。
この曲の歌詞が提示している青春の日々とドライブを、実際に僕らがしているような気にさせられたからだ。
僕らは断じて、この歌の歌詞に共感して、この歌の歌詞のようなドライブがしたいがためにこの曲を流しながらドライブしているわけじゃないと誰かに訴えたくなった。
そんなつもりはまったくないんだと言い訳したくてたまらない気分にさせられた。
僕らは移動手段として車に乗っているだけで、このドライブにエモい感情なんてひとかけらも持ってないんだ。
説明しづらいのだけれど、無意識にやっていた行動を傍から見ていた人に言葉で指摘される恥ずかしさに近い感情だ。
たとえば、「お前、好きなアニメの話するときだけ元気になるな」と言われたときとか。
すぐさま否定したいけれど、部分的には図星なため、反論できずに恥ずかしさを噛みしめるあの感じだ。
確かに僕らは仲間内でドライブしていることは否定しがたい事実で、車も思い出の地を走っていて、季節も夏だけど、違うんだ。歌詞見たいな繊細な人物じゃないし、恋バナもしてないし、断じて違うんだよ。
伝わるのだろうか、これ。
「ああ」と僕が苦悶の声を上げたそのとき、運転していたMさんが言った。
「聞いてらんないからラジオ変えよう」
そして、待ってましたという速度でラジオのつまみをひねる助手席のKさん。
僕が「なんかあの曲が流れている間、恥ずかしくてたまらなかったです」と告白すると、「大丈夫、全員そうだったから」と同意された。
あ、この人たちは僕と同じ穴のムジナだと安心したのを憶えている。
所感(2019年7月21日)
サザンファンのために言い訳をすると、『希望の轍』をバカにするつもりなんてなく、あの歌が綺麗な情景を描くのに成功しているからこそ、根暗な男たちは被害妄想的にダメージを負っただけだ。
サザンオールスターズという光は僕らにはまぶしすぎたのだ。
それでもこの文章を読んで苦々しい気分になったサザンファンの方々いれば、文化系男性のひねくれた気持ちの吐露なんて、自分の楽しかった夏でも思い返して、清濁併せて飲み込む感じであの夏に乾杯して許してほしい。
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