ちょっと変わった設定のリアリティーショーだと思って『DAU. ナターシャ』を観に行った話
どうもMr_noiseです。先日、事前情報をあまり集めず、『DAU. ナターシャ』という映画を見たところ、想像を絶した衝撃的な内容と、映画を見た際のシチュエーションにより観賞後大分混乱をしてしまいました。今回は映画については美味く説明できないけど、何コレ?と思った体験をレポとして共有できればと思います。
予告映像を見てリアリティーショーと思った
僕が映画を見る前に入れた情報はKBCシネマの説明文と予告編の映像だけでした。それらの断片的な情報から理解できたこの映画の特徴は四つだけでした。
①ソ連時代の街を再現し、そこを舞台としている。
②キャストに実際に2年間そこに暮らしてもらった。
③実際の暮らしの映像を編集して映画化している。
④ロシアで放映禁止を食らった。
これらの情報をもとに僕は「ソ連共産主義下の暮らしを実際にしてみる実験的なリアリティーショー」と解釈して、映画を観に行きました。なんか過激とか言ってるし、面白そうだなと。今、予告編を見ると、ナターシャというウエイトレスが主人公だということや、「狂った」という言葉が何度も使われていてこの映画の異常性を強調していることにも気づきます。でも、そのときは映画の中身がわからん方が楽しめそうと思って、あんまり真剣に予告編見返したりはしませんでした。
映画館にはおじいさんとおばあさんしかいなかった
予告を見た1時間後にKBCシネマに到着。開演を待っていたのですが、平日15時の上映だったこともあり、お客さんは15人くらいしかおらず、定年を過ぎた映画好きのおじいちゃん・おばあちゃんばかりでした。僕以外に一人くらい20台の若者がいたような気がしますが、残りは老齢の方々のみ。平日のこの時間に映画館に来たのは初めてだったので、ソ連が舞台の映画だからこの年齢層なのか、平日だからなのかよくわかりませんでした。このときは特に意識しなかったのですが、おじいさん・おばあさんと見たということは僕の『DAU.ナターシャ』の映画体験に強く影響を及ぼすことになりました。
演技じゃないよと言わずに映画が始まる
映画が始まって最初に意外だったのは舞台設定や登場人物などの前提条件に対し何の説明もなかったことです。巨額の資金を投じ、街を作って、そこに現代の人を住まわせているのに、普通にレストランのシークエンスから始まるのです。テラスハウスみたいに登場人物の自己紹介をしてスタートみたいなことまではさすがに期待していませんでしたが、監督か狂言回し役の人が説明を挟んだり、セットを作るところを映して、ドキュメンタリーだよ、リアリティーショーだよと観客に示してくるかなとは思っていたので意外でした。だってそうしないと、普通の脚本のある映画として見てしまうじゃないですか。そして、そのレストランのシークエンスが2年間の生活の内の何年目の何月なのかも当然のように説明されません。これ、どう見たらいいんだろうと思いました。
普通に暴力をふるうナターシャ
次に意外だったのは登場人物たちの仲が普通に悪いことです。和気あいあいを想像していたわけではないのですが、最初はほっこりした関係性で始まり、だんだんと仲が深まったり、険悪になったりするのかなと思っていました。ナターシャはレストランの切り盛りをしており、もう一人若い女の子のウエイトレスがいるのですが、最初から仲が悪いのです。閉店後、彼女らは床のそうじをやるか否かで口論を始めます。店主のナターシャは帰る前に、掃除しろと言い、若い娘は嫌だと断る。共産主義下だから労働することに意欲がそんなにないという描写なのかなと思って見ていたのですが、閉店後に酒を煽っていたこともあってか、口喧嘩がつかみ合いのけんかまで発展します。帰ろうとする若い子を羽交い絞めにして、掃除をさせようとするナターシャ。振り切ろうとする若い子。ナターシャパンチ。負けずと若い子パンチ。文章で書くとなんだかポップに見えますが、これが演技でないとすると、ただの暴力ということになります。僕はあまり映画を見ない方なのですが、スクリーン上にただの暴力が映るのはわりかしよくあることなのでしょうか。正直最初は過激だなと喜んで見ていたのですが、なかなか喧嘩が終わらないので、だんだんと不安になりました。何で撮影者は喧嘩を止めないんだろう。ケガをしたらどうするんだろう。これは観客として僕が楽しみながら見ていい映像なのか?と。
普通にチ〇コが映る実験
僕が次に驚いたのは実験のシークエンスでした。予告編でもちらっと映っていますが、巨大な三角錐の中に裸の男性兵士が入り、心拍数の変化などを見る実験です。この映画見てない人には意味わからん実験に思えるかもしれませんが、見ていても実験の詳細や意味は説明されないのでわかりません。なんか三角錐の中から出てきた兵士に博士と助手が「何を感じた?」みたいな曖昧な質問をし、裸の兵士が答えるという頭のねじが外れてるとしか思えない実験なのですが、普通に男性の局部が映っているんですよ。あれ?チ〇コって映していいんだっけか?という疑問と、これが演技じゃないとしたらこの実験なんだよっていう疑問と、この兵士役の男性は映画内にチ〇コ出していいって許可したってこと?と色んなクエスチョンマークが頭に浮かびました。その後、二人目の兵士の人は股間を手で隠していて安心したのですが、映画を見ながらチ〇コでなくて安心するってどういうことなのかいまだによくわかりません。ここら辺から本当にこの映画は何が起こるかわからなくて怖く感じ始めました。
普通に本番するナターシャ
レストランの閉店後、宴会でたらふく酒を飲んだ後で、ナターシャはある男性とベットに入っていきます。まあ、生活してるんだからそういうこともあるかと思って見ていたのですが、なかなかカメラが止まって、次のシークエンスに行きません。リアリティーショーとして見ているので、観客としてはそういうことがあったんだなという描写だけで別にいいのですが、普通にナターシャがスクリーン上で本番していました。ナニがナニしていました。かろうじてちゃんとモザイクがかかっていたのでそこは安心したのですが、長いベッドシーンだったのでだんだん周りが気になってきました。。僕は本番を周りのおじいさん・おばあさんと見ていのです。おじいさん・おばあさんとスクリーン上で本番を見るのは初めての体験だったので、困惑しました。普段映画に行くと色んな年齢層の方がいるからあんまり周りのことは気しないのですが、この日はおじいさんとおばあさんだけだったので印象に残ってしまっていたのです。どんな気持ちで見ているんだろうなあ、あの人たち。ラッキーだと思ってんのか、あらいやだわうふふ見たいな感じなのか、けしからんって怒ってるのか。こんな映画見に来るくらいだから学術的・芸術的視点で考察しているのか。おじいさん・おばあさん×本番シーン。どんな気持ちになればいいんだろうな、この映像、この状況と思いました。
そして例の問題のシーンもおじいさん・おばあさんと見る
ネタバレを避けるために何も説明しませんが、本番シーンより倫理的にアウトな行為がなされるシークエンスがこの映画にはあります。十数分前にナターシャが「ウォッカを飲んだ後にビールを口に流し込むのが最高の飲み方なのよ」とか言いながらその飲み方を実践していて、この映画は本当に何でもありなのだなとこの映画のことをわかり始めていたつもりだったのですが唖然としました。これが本当に脚本無しなら、これは観客として僕が楽しんだらいけない映像だと思いました。お金を払うことで、この行為を間接的に助成しているのであれば、それは許されないことだと思ってしまいました。リアリティーショーを見にきたはずですが、脚本であれと思うに至ったのです。
こういう過激な映画の内容について騒ぎ立てるのは、監督の思った通りの反応をしてしまっているようで癪に障るのですが、見て1カ月くらい経ったのに何だったんだアレ感が収まらないので長々と駄文を書いてしまいました。最後にこの映画について、僕が気になったことを3行にまとめて終わります。
①結局、脚本なの?そうでないの?
②脚本でないなら完全に倫理的にアウトじゃない?
③この映画を見て、ほかの人はどう思ったの?
というか、あのとき一緒に見たおじいさん・おばあさんたちはどう思ったの?
四行になったけど、雑におわり。
サポートしていただいた場合、たぶんその金額をそのまま経費として使った記事を書くと思います。